復活なくして救いなし

クリスマスは有名だが、イースターの知名度はいまひとつ。さて今さら言うまでもないだろうが、クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日である。ところがクリスマスが有名な理由がそこにあるのかというと、どうも疑わしい。クリスマスと聞いてキリストを思い浮かべる人とサンタクロースを思い浮かべる人と、どちらが多いのかを調べたことはないが、私が推測するにおそらく後者であろう。なぜならキリスト教が根付いているとはお世辞にも言い難い日本でも、クリスマスだけは年中行事として人々に覚えられ ているからだ。本来の意味がすっかりかすれてしまい、脇役でしかないサンタクロースやプレゼントやケーキが主役になっていることを考えると、人々の頭の中に何があるのかは推して知るべしである。

一方イースターはどうかといえば、名前くらいは聞いたことがあるか、さもなければ全く知らないという人もいるだろう。イースターとは復活祭のことであり、復活祭とはすなわちイエス・キリストが死からよみがえられたことを祝う日であるということを知る人は、教会に行っている人以外では少数であろうと思う。

クリスマスとイースターとは、その知名度においては雲泥の差であるが、その意義には僅差もない。違いが無いどころか、この両者を切り離して考えることは不可能と言っても構わないだろう。キリストが処女マリアより生まれたことは信じるが、死からよみがえったことは信じないというのは基本的には無理な話だし、キリストが処女から生まれたことは信じないが、死からよみがえったことは信じるというのもやはり無理な話である。いずれか一方だけを受け入れるということはできない。どちらも信じないか、もしく は両方とも信じるかの二者択一しかできない。

もし仮に私たちがクリスマスだけを受け入れたとしたら、私たちにとってキリストはどのようなお方になるのだろうかと考えてみよう。処女から生まれた赤ん坊、ヨルダン川で天からの声に「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイの福音3章17節)と告げられた神の子、人々に神のことばを伝えた偉大な教師、病める人々を癒した奇跡の人、人々を解放すると期待されていたユダヤ人の王、自身の身には何一つ汚点がないにも関わらず、人々の罪を背負い身代わりとなって十字架につけられたいけにえの子羊……私たちが救い主と呼ぶキリストはどこへ行ってしまったのだろうか。残念ながらクリスマスだけでは救い主としてのキリストは存在しないのである。なぜならキリストは神の子であったかもしれないが、遠い昔にすでに死んでおり、墓に葬られ、そこ で朽ちてしまったからだ。たとえ生きている間に数多くの奇跡を行い、時に死んだ人を生き返らせることがあったとしても、自身が死んでしまってはどうすることもできない。たとえ神の子であり、自身も神であったとしても、死んだままの神にいかなる希望を見 いだすことができようか。生きていない神を礼拝するのは、偶像を礼拝するのと違いないではないか。

クリスマスの夜にキリストがこの世に来られたというだけでは十分ではない。キリストがこの世において人々と共に歩まれ、人の苦しみや悲しみや喜びを分かちあったとしても十分ではないし、また人々に神のことばを教え、神のわざを行ったとしてもまだ足りない。自らのいのちを人々の罪の代価として捧げたとしても、救い主としてのキリストの働きは完全ではないのである。

たしかに罪を赦すためであれば、そこまですれば事は足りたことだろう。しかしイエスが死んだままでは、その先がないではないか。イエスがこの世にやってきた目的は贖罪だけではない。実際イエスはこう言っている。「人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネの福音3章15節)

イエスは永遠のいのちを与えるために、人としてこの世に来られたのである。それを完成させるのがよみがえり、すなわち復活なのである。キリストは今この瞬間も生きておられるし、永遠に生きておられるのだ。永遠のいのちを御自身で持っておられるから、それを人にも与えて下さることができるのではないか。もしキリストが死んだままであったら、人はやはり死んだままであったろう。