「羊」それとも「狼」

先に見たとおり、キリストのことばに従うのであれば、安易な道は広い門へと続き、広い門は霊的な死を意 味し、その反対に険しい道は狭い門へと至り、狭い門は霊的ないのちを意味する。「どうしたから」という理由はあえて考えないで、「どうなる」という結果だけで考えるとしたら、多くの人々が狭い門から入りたいと考えていることだろう。キリスト者としての模範的な言い方をすれば、全ての人々が霊的ないのちを得ることを願っているに違いないと期待するべきなのかもしれないが、世の中には様々な考えの人がいることを考えに入れると、自ら選択して破滅への道を進もうとする人も少数ながらいるのではないだろうかとも勘ぐってしまう。ところがいくら世の中の大多数の人々がいのちを望んでいるとしても、残念ながら誰もが肉体の死を超えた永遠のいのちを手することができるというわけでもない。だから狭き門が狭き門と言われているのかもしれない。その反面、知らずのうちに広い門へ導かれてしまう人々の方がはるかに多いことだろう。

ところで人間というのは目で見ることのできるもの、耳で聞くことのできるもの、手で触れることのできる もの、すなわち五感で感じることのできるものに頼ってしまうことが傾向として多いのではないだろうか。例えば家を留守にするときに、トイレの電気を消したかとか、湯沸かし器のスイッチを切ったかとか、玄関を出て駐車場に着いて車に乗り込んでエンジンを掛けてから、ふと不安になったとしよう。そこでちゃんと始末をしてきたかを確認しようと、助手席に座っている妻に「電気消した?湯沸かしのスイッチ切った?」と聞いて「電気も消したし、湯沸かしも切ったわよ」と答えられても、やはり心配になって今一度自分の目で確かめるまでは納得ができないこともあるという具合だ。要するに、何を一番信用するかと言えば、人の言葉ではなく、自分自身の五感なのである。人を疑い過ぎるというのも考え物だが、やはり自己防衛本能の働きなのであろうか。

信仰についても似たようなことが言えるであろう。キリストはこう教えている。「にせ預言者たちに気をつ けなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。」(マタイの福音7章15~16節)

にせ預言者たちとは何者であろうか。ここでは細かく説明されていないが、キリストが言うには、外面では 「羊」のように柔和で純真であろうが、内面では「狼」のように貪欲な者であるらしい。ちなみに狼というのは性質上、獲物の群れの中から弱い個体を狙うことが多いという。つまりにせ預言者というのは、一片の悪意も見られないおだやかな態度で、弱い立場の人に接近し、手を伸せば相手に届くすぐのところまで近づくと、豹変して相手をとらえてしまうということだろう。もし相手が文字通り目に見える形で態度を変えてしまうのであれば、機会を見つけて逃れることもできるだろうが、そうでない場合はむしろ逃れられない深みに追い込まれしまうのだろう。それが人々を間違った道、すなわち広い門へと続く道へ導いてしまうのである。

しかし気をつけろと言われても、相手が「羊」のようにやってくるのであれば、気をつけようがないのでは ないか。幸いにもキリストはどうすればいいのかを教えている。つまり彼らの働きがどのような実を結ぶかで、「狼」であるかどうかを見極めるのである。最終的に見極めるのは自分自身ということだ。自分の目や耳や手を用いることで「羊」のようにしてやってきた者が本当に「羊」なのかそれとも「羊」の皮をかぶった「狼」であるかを確かめるのだ。気がつかない間に、滅びへと続く広い門へ誘われてしまうのを避けるためにも必要なことなのである。ではどのようにして彼らの実を見分けたら良いのだろうか。キリストはさらに言っている。「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」(17節)

良い実かどうかを見ればよいのだ。良い実であるかそうでないかの基準は、神から出た実と同じであるかど うかということであろう。神から出た実が何であるかを知るには、神のひとり子であるキリストの働きを見れば一目瞭然であろう。キリストを否定するのであれば、それは悪い実であり、キリストを指し示すのであれば、それは良い実であろう。