岩の上に建てる

いよいよ山上の垂訓も締めくくりである。最後にイエスは弟子たちにこう教えている。「わたしのこれらの ことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイの福音7章24節)

イエスが今まで語ってきたことばを忘れてしまった場合には、改めてマタイの福音5章から読み直してみれ ばよいだろう。イエスは多くを語ってきたが、さほど難解なことは言っていなかったと思う。むしろ話された内容のひとつひとつを見れば、ごく単純かつ簡単なものである方が多いのではないだろうか。振り返ってみれば、私が山上の垂訓をテーマとして書き始めたのがちょうど去年の5月23日なのである。途中で何度か別のことを題材にして書いたこともあったが、ざっと考えてみるとイエスが山の上で弟子たちに教えられたことを見るだけでおおよそ一年間も費やしたことになる。どちらかと言えば、それだけ長い時間が掛かったということの方が驚きかもしれない。

ところでイエスが言うには、それまで彼が語り伝えてきたことを行うのであれば、その人は岩の上に家を建 てた人のように賢い者と見られるということである。なぜ家を岩の上に建てた人は賢いと思われるのだろうか。それは続くイエスのことばに見ることができる。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」(25節)

岩の上に建てられた家というのは土台がしっかりしており、ちょっとやそっとの雨風ではびくともしない。 さながら現在に置き換えて言うのであれば、地山のうえに地中深く杭を打って、そこに家を建てることに等しいだろう。どれほど激しい嵐に遭おうとも、多少の地震に襲われようとも、完全に崩れることはないに違いない。つまりキリストのことばに従うということは、確かな土台の上に家を建てるように、自らの生活をキリストという揺るぐことのない土台の上に築くということになるのだ。そのように生きる人は、人生の嵐に遭遇しようとも倒されることはない。

それではキリストのことばに従わない者はどうなるのか。イエスはこう言っている。「わたしのこれらのこ とばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(26~27節)

そのような人々は砂の上に家を建てる人のようだという。現在に置き換えるとしたら、埋め立て地に家を建 てるようなものだろうか。地盤の安定しない場所に家を建てることがどれほど危険なことであるかは、先の大震災の影響による液状化現象の被害を受けた地域の映像を幾度か見ておられるだろうから、説明するまでもあるまい。あの様子を見る限り、地面そのものが流砂になるようで、土台などあってもあまり意味がないであろう。砂の上に家を建ててしまうと、土台から揺らいでしまう危険があるのだ。つまりイエスのことばではなく、自分自身の欲求や考え、そうでなければ人の意見に従って行動するということであり、それでは生活の土台が安定しないということになるだろう。人の心というのは、ちょっとしたことで動かされ易いものであろう。そのような人の思いの上に、何かを築き上げようとしても、外から何か圧力が加えられようものなら、それこそ根本から突き崩されてしまいかねない。

そう考えてみると、イエスから直接教えられた弟子たち、またイエスを救い主として受け入れ、こうして聖 書を読んでいる私たち、言うなればキリストの「これらのことばを聞い」た者の責任というのは重いのではないか。

信仰に生きるとは、自らの行いや言動を、見えるところも見えないところも含めて、キリストのことばに従 って律することにある。それは言うほどに易しいものではないだろうし、時に困難や誘惑を伴うかもしれない。しかしひとたびキリストという岩の上に立つことができれば、その人の生き方というのは、どれほど風が激しく吹き、雨が打つように降り注ごうとも、揺らぐことのない確かなものとなる。