アダムの自由

遠い昔、アダムという男がいた。彼は東の方エデンの園に住んでいた。彼の周りには様々な種類の動物や鳥 、それに魚がいた。しかし彼はそれらを捕らえて食べようとはしなかった。なぜ彼はそれらの生き物を捕らえて食べようとしなかったのだろうか。彼はベジタリアンだったのかだろうかと言われれば、それは結果としてそうなっただけであって、彼が好んでそうなったわけではなかっただろう。また誰かが彼に、肉を食べてはならぬと命じたわけでもなかった。ただ彼には動物を捕らえて食べようという考えがなかったのだ。

それに彼の周りには動物だけではなく、植物も豊富に生えており、彼はそこから好きな果実を取って食べる ことができたのだ。それらは見るからに好ましく、食べるのに良いものであった。つまりセロリとかツルムラサキとか、そういった独特の風味や食感を持っているものばかりではなかったということだろう。もしも私がスーパーの野菜売り場にある野菜だけを一日三回、毎日毎日食べさせられようものなら、それこそ発狂してしまうに違いない。そうなる前に、肉類に手を出すこと疑いなしである。しかしエデンの園には、見てよし、食べてよしというくらいだから、きっとこの私でも満足するような果実が多く実っていたことだろう。神が言うには、アダムはいずれの木の実、作物を思いのままに自由に食べて良いということであった。なるほど、そうだとすればわざわざ動物を捕らえて食べようなどという発想は浮かぶまい。

ところで、エデンの園には私たちが見たことも聞いたこともない、どのようなものか想像することさえでき ないような二種類の木が植わっていたそうだ。何と言っても遠い昔の話であるから、どのような木でどのような実がなっていたのか、絵などというものは残されていない。わずかに聖書にその記述を見い出すことができる程度だ。さて、どのような木であったかというと、ひとつは「いのちの木」であり、もうひとつは「善悪の知識の木」であったという。ところが神はアダムに「善悪の知識の木」の実を取って食べてはならないと命じた。すべての果実作物を食べても良いということだったが、この「善悪の知識の木」だけは例外であった。この木の果実を食べるとどうなるのか。またなぜこの木から食べてはならないのか。神が言うには「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」ということだ。これはアダムを守るための戒めであって、アダムに食べさせるのは勿体ないからというケチな理由からではなかった。

さてアダムはこの戒めを守ったであろうか……などと考えるのは野暮なことだろう。アダムは遠い昔に死ん でしまったというのが事実なのだから。

アダムは食べてはいけないと命じられていた木の実を食べてしまったのだ。そして神が前もって言った通り に、彼は死んだ。もっとも口にした瞬間に死んだわけではない。彼はその人生を全うしてから死んだのだ。今を生きる私たちの視点から見れば、何も不思議なことではないし、当然ではないかとさえ思うことだろう。しかしエデンの園にいた頃、アダムには食肉という習慣がなかったように、死というものも存在しなかったのだ。なぜならアダムは「いのちの木」になる実を食べることで、永遠にいのちを得ることができたからだ。つまり神からの戒めを破ったことで、彼と彼に「善悪の知識の木」の実を食べさせた彼の妻はエデンの園から追放され、その結果として「いのちの木」から断絶されてしまったのだ。

アダムには一つの戒めを除いては何をするにも自由であり、また生きていく上での問題や労苦もなければ、 必要は全て満たされており、言うなれば彼は地上でもっとも祝福された者であったはずだ。

アダムの過ちの原因は、彼を取り巻く環境ではなかった。彼自身の選択でそうなったのだ。不幸な人が過ち を犯すわけでもなく、恵まれた人が罪を犯さないというわけではない。残念なことであるが、罪を犯すも犯さないも人の自由なのだ。だから生い立ちや境遇のせいにすることはできない。アダムがその責任を負ったように、人は自らの罪の責任を負わねばならない。

しかし自分一人では重荷を担いきれないと感じたときは、キリストに助けを求める自由も人にはあるのだ。