カインのしるし

遠い昔、カインという男がいた。彼にはアベルという名の弟がいた。兄のカインは農夫であり、弟のアベル は牧者であった。兄弟仲がどうであったかということについては、聖書には何とも記録されていない。記録されていないということは、もしかしたらごくありふれた、付かず離れずといった関係だったのかもしれない。さてそんな二人であったが、ある日事件が起きた。兄が弟を殺してしまったのだ。兄のカインに理由を聞けば「つい、かっとなって殺してしまった」と答えるところであろう。怒りにまかせて殺したということを考えれば、何とも野蛮なことをしたものだと思うし、意図的に野原に呼び出して襲ったことを考えると、何とも計画的で悪意に満ちたものであろうかとも思える。

そもそも事件の発端は何であったのだろうか。その原因を知るには二人が神に捧げものをした時まで時間を 戻さねばなるまい。ある日のことであるが、農夫であるカインは、その畑でとれた作物の一部を神に捧げるために持ってきた。一方牧者であるアベルは、自らが育てた羊のうちから最初に生まれた子羊、しかも一番良いものを選んで神に捧げるために持ってきた。この話を読む限りでは、どちらか一方が抜け駆けして神に捧げようとしたわけではなかったようだ。おそらく互いに話し合って神に捧げようということになったのだろう。おそらく神を慕う気持ちは兄弟に同じようにあったに違いない。

さて神はアベルの捧げものには目を留めたのだが、カインの捧げものには目もくれなかった。このことでカ インはひどく腹を立てた。怒る彼に対して神はこう言った。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。」(創世記4章6~7節)

つまりアベルのしたことを神は正しいとみなしたが、カインのしたことを正しいとはみなさなかったのだ。 なぜだろうか。どちらも神に捧げものをしたではないか。神に捧げることに正しいとか正しくないとかの違いはないように思える。おそらく神が目を留めたのは、捧げものそのものではなく、捧げたカインとアベルの心の内側であったのかもしれない。もしカインの心がまっすぐ神に向いていたのであれば、畑で採れた収穫物であっても神は目を留められたかもしれない。人の心の内側にあるものは、自然とその人の行動に表れてくるものであろう。羊の初子から最上のものを選んだアベルは、神に最善を捧げようと考えていたのかもしれない。一方カインの捧げた作物は、初物であったという記録もなければ、最上のものであったとも書かれていない。おそらく数多く採れたものの一部であったのかもしれない。そうだとすると、カインの心のうちには神に対する特別な気持ちがなかったのではと疑ってしまう。もちろん、私の個人的な推測でしかないわけで、本当にそうであったかどうかは分からない。しかし私が自分自身の心の中と信仰と、神に対する感情や思いなどを省みると、残念ながら私の推測というのもまんざらでもないようだ。

しかし神が何と言おうとも、カインの怒りは収まらなかった。疑いを持たぬアベルは兄に誘われるがままに 出掛けて行き、逃れる間もなく兄に殺されてしまったのだ。神は何が起こったかを知っておられたし、あえてカインも言い逃れようとはしなかった。自らのしたことに気付いた彼は、神に告白した。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。……それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」(13~14節)

弟を殺しておきながら、人から殺められることを恐れるというのも身勝手というものだが、これが飾らぬ人 間の姿なのであろう。

ところで神は罪を犯したカインが他人の手に掛かることをよしとされただろうか。いや、むしろ彼を殺そう とする者に対して復讐するとまで言っており、彼が殺されることのないようにしるしを与えたという。しかしなぜ神はカインを生かそうとしたのだろうか。それはカインの犯した罪が、アベルに対してのものであっただけではなく、元をたどれば神に対しての不誠実にあったからであろう。カインに復讐することができる唯一の存在とは、神をおいて他にはいなかったのである。その権利を持つ神が彼を生かそうと決めたのだから他の誰にも彼を殺すことはできないのだ。思えば私たちも神に罪を犯したということではカインと同じ立場にあるのだろう。だとすれば、不思議なことかもしれないが私たちも神によって生かされ、また守られているとも言えよう。神は人が罪を悔い改め、再び神の元に帰ることを待っておられるということなのかもしれない。