イシュマエルの祝福

遠い昔、イシュマエルという男がいた。イシュマエルは信仰の父として知られているアブラハムの息子であ ったが、ひとつ気になるところがあって、それが何であるかというと、実は彼の母はアブラハムの正式な妻ではなかった。しかしだからといって、彼が姦淫の罪によって生まれた子であったかというと、そういうわけでもなかった。彼の母はハガイという女性であった。ハガイはアブラハムの正妻であるサラの召使いであったが、サラは自分と夫の間になかなか子供が授からなかったので、言うなればハガイを側室として夫に差し出したというところであろう。アブラハムが誤解されないように書いておくが、魔が差して妻の召使いに手を出したというわけではない。

ところがハガイがアブラハムの子を身ごもったことで、女主人であるサラに対して見下すかのような態度で 接するようになったという。まぁ、当然の成り行きと言ってしまえば、そう言えないこともないだろう。ハガイにしてみれば、自分は女主人よりも優れている者と思ってしまうだろうし、サラにしてみれば、召使いのくせになんと思い上がった憎い女と思ったことだろう。これは私の想像でしかないが、アブラハムにしてみれば、正室であろうが側室であろうが、父親としての自分の立場に違いはないから、どちらでもいいではないかと思ったかもしれない。そして傍観者的な立場から見れば、そもそも最初にサラがハガイを自分の「代理」としてアブラハムのところに送らなければ済んだ話ではないかとか、アブラハムが自身の妻であるサラに対して誠実であれば良かったのではないかなどと思ってしまうのだ。改めて思うのだが、何とも人間というのは自分勝手なものである。自分の目線でしか物事を見れないものである。

さてアブラハムの子を宿したことがハガイにとって祝福どころか悲運の始まりとなったしまった。サラはハ ガイをねたむあまりに、あれこれとひどいことをしたのだろう。具体的にどのようなことかは分からないが、とうとう彼女は女主人のところから身重の体であったにも関わらず逃げ出してしまったほどだ。彼女が荒野の泉のほとりで休憩を取っていると、神がやってきて、どこから来てどこに向うのかと尋ねたそうだ。彼女はハガイから逃げていると答えたのだが、神はそのような彼女を助けるどころか、女主人のもとに戻り、彼女の前に身を低くするようにと言ったのだ。そこで彼女は神のことばに従い、アブラハムとサラのところへと帰って行った。そうして生まれてきた子がイシュマエルであった。

ところでイシュマエルがどのような人物であったかについては、残念ながら何とも書かれていない。しかし 彼の父であるアブラハムは彼を好いていたらしいことは容易に想像がつく。何と言ってもアブラハムにとっては最初の子供なのだから、当然であろう。父の息子に対する思いは、祈りの中にも見ることができる。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」(創世記17章18節)

これが父であるアブラハムの神に対する期待であり、息子に対する願いであったのだろう。つまり神と共に 生きるようになって欲しいという思いが込められていたのだ。

ところが神はアブラハムの祈りを否定しないまでも、そのまま受け取ることはしなかった。神はイシュマエ ルをどうするという前に、サラが生むであろうアブラハムの息子との間に契約を立てると宣言したのだ。「わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」(同19節)

察するにアブラハムの願いと、神の考えにはちょっとした違いがあるのではないか。アブラハムは目の前に いる我が息子の行く末を案じるばかりであったが、神は彼の子孫と永遠の契約を結ぶと言われたのだ。つまりどれほど先に目を向けていたかの違いである。アブラハムは自分の次の代がどうなるかを気にしていたが、神は永遠という尺度で未来を見ていたのだ。神と人の契約は一代だけのものではなく、永遠に続くものだということだ。

人が求める祝福というのは、その人の目の届く範囲内に収まるものかもしれない。しかし神の与える祝福は 、人の知覚を遙かに超えたものなのであろう。