レウエルの歓待

遠い昔、レウエルと言う男がいた。聖書に出てくる人物のなかでもほぼ無名に等しい人物ではないだろか。 かく言う私自身も、今の今まで見過ごしてきた。彼はミデヤンの地における祭司であり、なんと驚くべきことに七人も娘がいたという。我が家にも二人の娘がいるが、何と言うべきか、実に賑やかである。ましてや七人も娘がいたら、果たしてどれほど賑やかなものであろうかと考えてみると、ちょっと圧倒されてしまいそうだ。

さてある日のことであるが、この娘たちが父の羊たちに水を飲ませようと井戸へやってきて水を汲んでいる と、荒くれ者の羊飼いたちがやってきて、彼女たちを追い払おうとしたという。ところで後にモーセの十戒として信仰者に限らずとも広く知られることになるモーセであるが、この頃エジプトで騒動を起こしてその地に居られなくなってしまい、やむなくミデヤンの地に逃れて住んでいた。ちょうど娘たちが乱暴をされたのは、モーセが井戸のそばで休んでいた時のことだった。娘たちが邪険にされているところを目にすると、彼の生まれながらの正義の血が黙っていることができなかったのだろう、彼は羊飼いたちを追い払って娘たちを救い出したのだった。エジプトでは似たようなシチュエーションでエジプト人を殺してしまい、不幸にもそれがために同胞のイスラエル人からも危険視され、挙げ句にパロにそのことが知られてしまい官憲から追われる身になってしまったのであるから、もしかしたらモーセは後になってから新たな敵を作ってしまったとか、パロに居場所を知られる手掛かりを残してしまったとか、ちょっとばかり後悔したかもしれない。しかし後悔先に立たずである、終わったことをどうのこうの言ってもはじまらない。

一方娘たちは無事に羊たちに水を飲ませることができると、早々に引き上げてしまった。いつもより早く帰 ってきたことに驚きながらも、そのわけを聞いて、さらに驚かされたのは父レウエルであったろう。彼女たちが早くに帰宅したことを意外に思ったということは、今までは遅く帰るのが常であったからだろうと想像するのは容易である。つまり同じことは以前から度々起きていたのかもしれない。ただ、誰も助けを出さなかったのだろう。

レウエルはさっそくモーセを食事に招待することにしたのだった。それほどまでに彼はモーセのしたことを 感謝に思い、また嬉しくもあり好ましくも思ったのだろう。一方モーセはどうしたかと言えば、元々が放浪の身であったから、そのままレウエルの家に身を寄せることになったのだ。やがてモーセは七人の娘のひとりチッポラと結婚することになった。逃亡生活をしていた彼にとってはようやく平安の時が訪れたようなものであったろう。そして時が流れ、二人の間に男の子が生まれた。モーセはその子をゲルショムと名付けた。今の時代の日本に住む私たちからしてみれば、何とも不思議な馴染みの全くない名前であるが、モーセの「私は外国にいる寄留者だ」(出エジプト記2章22節)という思いが込められていたのだろう。それというのもゲルショムと言う言葉には「一時的な滞在者」「追放された者」という意味があるらしい。まさしくモーセの置かれた立場を表わすに相応しい名のように思える。故郷から追放され、同胞のイスラエル人からも見放され、異国ミデヤンの地で新しく出会った人々と共に生活するようになったモーセの生き様そのものである。

そのようなモーセの置かれた状況を見てみると、あまり好ましいとは言えないように思えてくる。しかしも しモーセが娘たちに出会うことがなかったら、どうなっていただろうか。またレウエルが彼を招き入れずにそのまま放っておいたらどうなったことだろうか。実際この後モーセは、ミデヤンの地において羊の世話をしている時に神と出会うことになるのだが、彼がミデヤンの地に留まることができたからこそ得られた機会だったのではないだろうか。

そう考えてみると、ミデヤンの祭司であり七人娘の父であるレウエルの果たした役割は大きかったのではな いだろうか。彼がモーセを食事に招き、彼に住むべき場所を提供し、家族を持つ機会を与えたことは、すなわちモーセのために神と出会うための道を整えたと言えるのではないだろうか。そしてそれはやがてイスラエル人のエジプトからの解放へとつながっているのだ。

人の小さな行いのひとつが、神の壮大なご計画において大きな役割を果たすこともあるのだ。