ベツァルエルの才能

遠い昔、ベツァルエルと言う男がいた。ベツァルエルは今時の言葉を借りて言うならば、「勝ち組」に属す ることができたであろう。今であれば、その才能を大いに用いて、社会的に成功を収め、富と名声を得ることができたくらいかもしれない。それというのも聖書のことばを引用するならば「知恵と英知と知識」(出エジプト記35章31節)を兼ね備えた人物であったからだ。知恵も英知も知識もろくにない私からすれば何とも羨ましい限りである。私が才能豊かな人間であれば、今頃もうちょいマシな暮らしを送れたかもしれないのに……もっともそれはないものねだりというものであろうか。

それはそうとして、ベツァルエルはどういったわけで、このように優れた才能の持ち主となったのだろうか 。それは彼の努力と勤勉の賜物だったのだろうか。それとも彼には明確な目標とか高い理想とか呼べるものがあり、それを目指すことで結果として知恵のある人物となったのだろうか。しかしながら、どうやら実際はそうではなかったようである。聖書にはこのように書かれている。「見よ。主はユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し出し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。それは彼が金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる設計的な仕事をさせるためである。また、彼の心に人を教える力を授けられた。」(同30~34節)

彼の才能は、彼自身が自らのために求めたものではなかった。彼の才能は、聖霊によって与えられたもので あった。

さて前回も見たとおり、荒野をさまよっていたイスラエルの民のうち幾人かは、彼らをエジプトから救い出 した神に背いて、自分たちの都合に合わせて、自分たちの求める形で、自分たちを納得させるために、自分自身の手で「神」を作りだし、彼らが「神」と呼んでいた偶像を礼拝するという罪を犯してしまった。犯してしまったというと、不本意ながら偶像礼拝をしたかのように聞こえてしまうが、不幸なことではあるが、現実には彼らは望んでそのような「神」を拝んだのだ。そしてそれがまことの神の怒りに触れ、神に背いた人々三千人が一日のうちに、レビ族の手により殺された。余談までに、レビ族の祖先はヤコブの息子レビであるが、彼は一度異国人を虐殺するという行為に及んでいる。血は争えぬというか、レビ族にはそのような残虐性があったのだろうか……いずれにせよこの事件の後、残されたイスラエルの民は神に心を向けるようになったのだ。そして神は再びイスラエルの民を導こうとされた。

イスラエルの民が神を礼拝するために、まず神は民に命じて様々なものを用意させるのだった。この箇所を 読んでも、私はまだ理解することができないのだが、いや、もしかしたらこれからも完全に理解することはできないであろうが、なぜ祭司の衣装や天幕などを用意する必要があったのだろうか。考えてみると、イスラエルの民や祭司を神の栄光の力(神と会見したモーセの顔は光を放っており、顔に覆いを掛けなければならなかったというから、その正体は分からないが、相当なエネルギーを持っていたに相違ない)から守るという目的があったのだろうとは想像できる。しかし、なぜこのような手間を掛ける必要があったのだろかという疑問は残るのだ。神がそうと望めば、わざわざ人間の手を借りずとも、自らの栄光の力を隠すこともできたであろう。あえて面倒な作業を課すことにより、人々の心を試そうとしたのだろうか、それとも彼らが暇を持て余さないようにしたのだろうか。何と言っても、暇になると人の心は挫けやすくなるものだ。それとも人々が形のあるものを求めたからだろうか。百聞は一見にしかずという言葉もあるように、確かに人は目に映るものを信じやすいものだ。

しかしここで大事なのは、神が一方的に指示を出しただけで、人々に後のことを任せたというわけではない ということであろう。それどころか神の命じることを実現するのに必要な知恵や知識、才能や能力というものを、神は惜しみなく人々の与えられるということである。神に従う時、自分の力に不安を感じるのであれば、神に知恵や力を与えて下さいとお願いすれば、心配から解放され、堂々と神に仕えられるようになるのかもしれない。