人の振り見て

イエスの弟子に対する教えはまだ続く。「さばいてはいけません。さばかれないためです。」(マタイの福 音7章1節)

額面通りに受け取って、人をさばいてはいけないのであれば、裁判官や検事や弁護士は職を失ってしまうの ではないか、などと考えるのは、ちょっとばかり短絡な発想である。勘違いしやすいところではあるが、人の行いを裁くということと、その行いをする人を裁くのとではまるで意味が違う。イエスの時代の律法学者たちのことはおいておくとして、現代の法律家たちは人を裁くのではなく、人の行いを判断するのが職務であろう。罪を憎んで人を憎まず、とは言うけれど、確かにその通りかもしれない。さばいてはいけないと聖書に書いてあるからと言って、人の悪事や不正や誤りに対して正面から意見することをせず、また人の正しい行いを評価しないのであれば、それでは世界の秩序の崩壊を招くことになる。であればイエスがここで言わんとしていることは、人が人を裁くことを戒めているのだろう。

私の記憶違いでなければ、聖書のどこを読んでも、イエスが人を裁くことはなかったと思う。確かに人の行 為に対しては、時に激しく怒りを表すことはあってもその人を裁くことはなかったではないか。律法学者や宗教家たちの間違えを指摘することはあっても、彼らを裁くことはなかったではないか。何よりもイエスが十字架に掛けられたまさにその時、人々には背を向けられ、兵士たちからは罵られ、ともに処刑される犯罪者には嘲られたにも関わらず、イエスは誰ひとりとして裁かなかった。それどころか彼らの過ちが赦されるようにと祈ったではないか。

行いを裁くのは世の秩序のために必要であるとしても、人を裁いてはならないというのは、どのような理由 があってなのだろうか。それをイエスはこう説明している。「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(2節)

つまり人を測る定規で私たちも測られるということであろう。

ところで話は少し変わるが、アメリカでは他人を指さすことは失礼にあたる。なぜならあちらでは人を非難 するときに相手を指さすからだ。日本人の感覚で意識せずに人を指さそうものなら、間違いなく相手を怒らせてしまうだろう。これは私がアメリカに留学していた時に聞いた話だが、人を指さす時の手は、一本の指(人差指)は相手に向いているものの、三本の指(中指、薬指、小指)は自分の方を向き、そして残る一本の指(親指)は天を指しており、すなわち人を批判することは、その批判は自分自身にも向けられたものであり、また天におられる神に対しても向けられていることにもなる。すなわち人を批判するのは、人を批判するだけにはとどまらないということだろう。

ところが人間というのは、どういうわけだか他人のことをあれこれ言うのが好きなものである。いや、好き かどうかというよりも、知らず知らずのうちに、そうしてしまうものであろう。かく言う私もその一人であるが、私の経験上、他人のことを言い始めたりすると、良いことよりも悪いことばかり言いたくなってしまい、その人のなりやら性格やらを否定してしまうのである……こうなると、ただの悪口でしかない。

イエスのことばに従うのであれば、自分も同じようにして人から見られたり、思われたりするようになると いう。もっとも人からどう思われようと知ったことじゃない、と言う人もいるかもしれない。やはりどちらかと言えば、私もそのくちなのであるが。もちろん人からどう思われようと、自分の価値が変わるわけでもない。褒められたからと言って自分の価値が上がるわけでもなければ、悪口を言われたからといって自分の価値が下がるわけでもない。自分は自分なのである。しかし重要なのは自分の価値が云々というところではないのだ。問題なのは、人から見て批判されるようなところが自分の中にあるということなのである。人の欠点なり短所を探してしまうのは、もしかしたら自分の中にある同じものが気になってしまうからではないだろうか。自分が同じことを気にしているから、人にそれを見いだすと気になってくるのかもしれない。

人を批判しそうになったら、まず神に目を向け、誰よりも神がその人を大切に思われていることを思いだそ うではないか。同じように神は私たちも大切に思われているのだ。