カレブの自信と確信

遠い昔、カレブと言う男がいた。カレブはモーセとアロンに導かれて荒野をさまよっていたイスラエル人の 一人であった。ある時、神はモーセに命じて、神がイスラエルの民に与えると約束した地を偵察するために、それぞれの部族から一名を選出してその地へ使わすようにと命じられた。カレブはユダの部族から選ばれた一人であった。約束の地を探ってきた彼らはぶどう、ざくろ、いちじくなどの果物を持ち帰り、モーセと民にこう報告した。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。」(民数記13章27節)

そのような前途の明るい報告を聞いた群衆がどのように応えたのかは何も書かれていない。これは私の想像 でしかないが、おそらくそれを聞いた人々は大いに喜び、期待に胸をふくらませたことだろう。生きていくのに必要最低限の食料と飲料水しかない荒野で四十年も過してきたのであるから、そのように反応するのが当然のことだろう。何と言っても、みずみずしい果実が実る豊かな地が、手を伸せばすぐのところにあるのだから。彼らは、いざ進まん、とばかりに声を上げたことだろう。そして実際に現地の様子を見てきたカレブは民に向ってこう言ったのだ。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(同30節)

カレブは約束の地へ向うことを是とした。そして人々にもそうするようにと訴えたのだった。それは約束の 地が肥沃だったからという単純な理由からではなく、彼には「必ずそれができる」という確信があったからであろう。

ところがカレブに同調するものはいなかったのだ。他の斥候たちは、それどころか反論するのであった。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。……私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。……私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」(同31~33節)

なんという自信のない、不安だらけの報告であろうか。神が彼らに与えて下さると約束された地を目の前にしながら、なんと弱気になっているのだろうか。自信と確信に満ちたカレブとは正反対である。

しかしながら、彼らの報告した内容が大げさだったということではないだろうし、虚偽であったというわけ でもないだろうと私は思う。確かにその地で、彼らは自分たちの背が低いことに気付いたであろうし、彼らが強そうであろうことにも気付いたに違いない。おそらく臆しても当然の状況であったかもしれない。そして同じ様子をカレブも見たはずであろうし、彼も最初は恐れを抱いたかもしれない。それではどうして同じ場所へ出掛け、同じ状況に置かれたにもかかわらず、両者の違いがでてしまったのだろうか。

それはカレブは客観的事実に対して、神への信仰という立場から観察することができたからではないか。つ まり敵の数がどれほど多く、また敵の体がいかに屈強に見えようとも、神がイスラエルの民にその地を与えて下さると約束して下さったのであれば、かならずそれは実現するという信仰に基づいた確信があったのだろう。その確信がカレブの自信につながったのではないか。一方、他の斥候たちは自らの視点から状況を見てしまったのではないか。つまり荒野で四十年もさまよったことで、数も減り、肉体的にも衰えてしまったイスラエルと肥沃な土地で十分な栄養で育った敵を比べてしまい、その優劣が明らかなことに気付いたのだろう。

さてイスラエルの民もカレブのような信仰を持っていたかといえば……彼らの話を聞くと人々は「大声をあ げて叫び、民はその夜、泣き明かした。」(同14章1節)といった具合である。残念ながら彼らもまた自分たちの視点から状況を判断してしまったのだ。

カレブのこの信仰に充ちた確信は、この時から数えてさらに四十年経った後も変わらなかったのである。彼は「イスラエルの神、主に従い通した」人物として聖書に名を残すことになったのだ。