アカンの後悔

遠い昔、アカンと言う男がいた。などと言ってしまうと「そないな冗談、言うてはアカンで」と怒られてし まいそうであるが、冗談などではなく、実は本当なのである。聖書にもこのようにしっかりと書いてある。「ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。」(ヨシュア記7章1節)

しかしながら「聖絶のもののいくらかを取った」と言うのは、ここだけを読んでしまうと意味がよく分から ないかもしれない。ということなので、もう少しさかのぼって見てみよう。直前のヨシュア記6章では、ヨシュアをリーダーとするイスラエルの民がエリコの町を陥落させたことが記録されているが、その町を滅ぼすときにヨシュアはイスラエルの民にこのように命じた。「この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。……ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。」(同6章17~18節)最低でもこれくらいを読めば、何となくアカンが何をしたのかが分かるであろう。つまりヨシュアから手を出してはならないと命じたものに手を出してしまったと見当を付けることができる。「聖絶のもの」が何であるかを知らなくとも、アカンがリーダーの命令に背くという過ちを犯したということくらいは分かる。

では、ヨシュアの命じた「聖絶のものに手を出すな」ということの意味についてもう少しばかり見ていこう 。おそらくこの箇所で一番意味が分からないのが、この「聖絶」という言葉であろう。「聖絶」など日常で使うような言葉ではないのは明らかであるが、クリスチャンであっても滅多に使うような言葉ではない。使うも何も、そもそも意味がよく分かっちゃいないというのが、私の場合には本音である。もちろん何となくは分かるのであるが……ということであれば、これがよい機会であろうから、もう少し具体的にそれが何を意味するのか考えてみたいと思う。

この「聖絶のもの」という言葉であるが、英語の聖書では”the devoted things(捧げられたもの)”(NI V)とか”the accursed thing(のろわれたもの)”(KJV)と表現されている。また日本語でも新共同訳では「滅ぼし尽くしてささげるべきこと」と表わされているし、口語訳では単純に「奉納物」と書かれている。ざっと5種類の聖書を見比べただけでも似ているようで、少しずつ異なっているというのが分かってくる。私はまったくと言っていいほどヘブル語通じていないので、元々の意味を知ろうなどと無謀なことは恥をさらすだけなので止めておくが、何種類かの訳を見るだけでも、元の言葉がどのようなニュアンスで使われていたのかは容易に想像できよう。それぞれの訳が微妙に違うとはいえ、どれかが間違っているというわけでもあるまい。おそらくどれも正解であろう。要は「捧げる」という意味に重点を置くか、「のろわれている」という意味に重点を置くかの違いであろう。それを踏まえると、個人的には「滅ぼし尽くしてささげるべきこと」というのがどちらの意味も含まれているようで、分かりやすいと思うのだ。改めて読み返すと「聖絶」も「絶して、聖とする」と言うことなのだろうから、意味としては正しいのだろうが、無理やりひねりだした造語という印象がぬぐえない。

実際、ヨシュアの命令に従ってイスラエルの民が行ったことは、「町にあるものは、男も女も、若い者も年 寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で」(同6章21節)殺し、「町とその中のすべてのものを火で焼い」(同24節)て滅ぼす一方、「銀、金、および青銅の器、鉄の器は、主の宮の宝物倉に納めた」(同)のだった。

ところがアカンはそのように扱われるべきものの一部を自分の懐に収めてしまったのである。イスラエルの 宿営を汚すようなものを持ち込み、また神に捧げられるべきものを盗んでしまったのである。一つの行為が、イスラエルの民に対する罪、神に対する罪というように二つの罪になったのだ。彼は罪を問われ、自らそれを認めたが、結果として彼と彼の一族および所有物が「聖絶」されてしまったのである。

思えば私たちもエリコの町やアカンのように「聖絶」の対象となってもおかしくない存在ではないか。アカ ンも私たちも罪を認めたまでは一緒である。しかしアカンと私たちの間に決定的な違いがある。それは「悔い改め」である。自らの罪を悔い改めてことで「聖絶」の「絶」がなくなり「聖」だけが残るのである。