ギデオンの求めたしるし

遠い昔、ギデオンと言う男がいた。彼の時代、イスラエルの人々は再び神に対して背を向けるようになって いた。実際、ギデオンの父ヨアシュも異教の神バアルのための祭壇を持っていたと書かれている。おそらくイスラエル人が神の前に行った悪というのは、彼らをエジプトの地から連れ出した唯一絶対の神ではなく、連れ出した先の土地において神として崇められていた偶像を礼拝したことであろう。何と言っても、イスラエル人には荒野における前科があるではないか。彼らにとって不幸なことは、年月を経たことで、人々の記憶から昔のことが忘れられつつあったことかもしれない。

その背きのために、イスラエル人は他民族によって今一度迫害されることになったのだ。神はミデヤン人を 送り、イスラエル人を懲らしめ、罪に気付かせようとした。ミデヤン人はイスラエル人を襲っては、彼らの農作物を奪い取ったという。それというのも「彼らは国を荒らすためにはいって来た」(士師記6章5節)からだ。エジプト人はイスラエルの民を迫害し奴隷としたが、ミデヤン人は彼らの土地を荒らすためにやってきたという。自由を奪われる方を選ぶか、生活の糧を奪われる方を選ぶか……個人的にはどちらも遠慮願いたいところである。とにかくイスラエルの民はミデヤン人から身を避けるために、山の洞窟に隠れて住んでいたというから、あまり自由でもなかったようである。

ようやくことここに至って、イスラエル人は自らの過ちに気付いたようで、神に助けを求めたという。なんとも都合の良いことを、などと思えてしまうのであるが、自分も似たようなところがあるので、あまり偉そうなことを言える立場ではない。むしろ彼らの身に起きたことから私は学ぶべきなのであろう。ところで、神はひとりの預言者を遣わして人々にこう伝えた。「あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」(同10節)

さて預言者が人々に神のことばを伝える一方で、神の御使いがギデオンのところへやってきて、彼にこう伝えた。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。……あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(同12、14節)

神がイスラエルを御自分の民として選ばれたという理由で、神が彼らの過ちを大目に見るということはなかった。むしろ御自身が義であるように、人々が義の道を歩むことを望まれたのである。イスラエルを取り巻く周辺の民族の多くが欲望に駆られるままに生活しているときに、神は人々に十戒を与えたではないか。今ふたたび人々の心と思いが神から離れた時、神は預言者を送り人々を咎めるのだった。しかし神は人々を咎めるだけではなかった。神はミデヤン人の手からイスラエルを救おうとすでに考えておられたのだ。

そこで神に選ばれた者がギデオンであったが、彼も完璧な人物ではなかったようだ。異教徒の偶像に捧げられた祭壇を作った者の息子だからというわけではなく、彼は神が彼を用いようとしていることに確信を持てなかったのだ。彼は三度までも、神からのしるしを求めている。「お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。」(同17節)「羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、……私にわかります。」(同37節)「今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください。」(同39節)

ギデオンが神を信じなかったというわけではないだろうし、また神の力を試そうとしたわけでもないだろう。むしろ彼が神を信じていたからこそ、神が本当に彼を通して働かれようとしていることを裏付けたかったのだろう。神にしるしを求めることは、目に見える証拠があってこそ、初めて神を信じるというように信仰のなさのあらわれと考えられやすいが、ギデオンの場合を見ると、そうとも限らないようである。彼は自分の起こす行動が、神のみこころにかなったものであるかを確信したかったのではないか。神のことばに従う時に、すべての不安と疑いを取り除きたかったのだろう。彼が求めたのは、神を信じるためのしるしではなかった。信仰を確かなものとするためのしるしであった。そして神はギデオンの求めるままにしるしを表わしたのだ。

ギデオンがそうであったように、信仰に従って何かをしようとするときに自信が持てないようであれば、神にしるしを求めてみるのもひとつの方法かもしれない。