アビメレクの悪

遠い昔、アビメレクと言う男がいた。彼はギデオンの息子のひとりであったが、ひとり息子というわけではなかった。なんと彼には70人近くの兄弟がいたそうだ。ところで彼の母はシェケム出身の女奴隷であったというから、これは私の想像でしかないが、おそらく他の兄弟たちからはさげすまれていたのかもしれない。もしかしたら彼はどこか僻みっぽいところがあり、いつか兄弟たちを見返してやろうと考えていたのかもしれない。そして父ギデオンが亡くなった時、彼は行動を起こしたのだ。彼は母の故郷の人々にこう問いかけた。「エルバアル(ギデオン)の息子七十人がみなで、あなたがたを治めるのと、ただひとりがあなたがたを治めるのと、あなたがたにとって、どちらがよいか。私があなたがたの骨肉であることを思い起こしてください。」(士師記9章2節)

当然、人々の気持ちとしては知らない人々の支配を受けるよりも、自分たちの身近な人物に治められることを望むであろう。こうして彼は今で言うところの世論操作を行い、大胆にも自ら王になろうとしたのだ。そして人々の思いが自分に傾いてきたことを知った彼は、自らの立場を守るべく兄弟全員を殺してしまったのだ。幸い、ギデオンの末の息子ヨタムだけは難を逃れたという。

文字通り邪魔者を排除した後、アビメレクは王となり三年間イスラエルの民を治めることになった。ところが神は悪を見過ごされるお方ではない。神はアビメレクの行った悪に報いるべく「アビメレクとシェケムの者たちの間に悪霊を送ったので、シェケムの者たちはアビメレクを裏切った」(同23節)のだ。人々は徐々にアビメレクから離反するようになった。かつては彼を王に担いだシェケムの人々であったが、今では彼の命を付け狙うようになったのだ。彼もまたシェケムの人々を殺した。やがて彼自身も高いやぐらの上から一人の女性が落とした臼で頭を割られたことが原因で死んでしまったのだ。

「こうして神は、アビメレクが彼の兄弟七十人を殺して、その父に行なった悪を、彼に報いられた」(同56節)という言葉の通りになったのである。またシェケムの人々についても同じ通りになったのだ。「神はシェケムの人々のすべての悪を彼らの頭上に報いられた。」(同57節)

神がアビメレクの悪に報いたのは当然の結果であろう。彼は自らの欲望のために、一人を除いて兄弟を皆殺しにしてしまったのである。そればかりか地位を守るために彼に反対する民衆をも千人という単位で殺してしまったのだ。彼が非業の死を遂げたのは、起こるべくして起こったことなのだろう。

ところでなぜシェケムの人々の悪についても、彼ら自身がその報いを受けなければならなかったのであろうか。そもそも彼らが好んで悪を行ったわけではないだろう。すでに述べたようにアビメレクが人々を誘うようなことをしなければ、彼らはアビメレクの悪事の片棒を担ぐようなことはしなかったであろう。張本人であるアビメレクが頭を割られるだけで済みそうなものである。しかしよくよく考えてみると、彼らの行った悪の中で一番神の怒りを買うことになったものは、ギデオンの息子たちを殺したことでもなければ、山越えの道で略奪を行ったことでもなく、ギデオンが彼らのために何をしたのかを忘れてしまったことではないだろうか。すなわち神がギデオンを通して彼らをミデヤン人から救い出したということを忘れたがゆえに、アビメレクの甘言に乗せられてしまったのではないか。そこから彼らは誤った道を進むことになったのだ。

人は自分の罪の原因を自分自身ではなく、他の何か―例えば自分を取り巻く状況や、一緒にいる誰か―に見出そうとする傾向にあるのではないだろうか。シェケムの人々のように外から見るだけでは、アビメレクが非難されて当然という状況もあるだろうが、たとえそう見えたとしても本当の原因はその人自身にあるのではないだろうか。人は自分自身の罪の代価を負わなければならないのである。アビメレクにしてもシェケムの人々にしても、自らの死でその代償を払うことになったではないか。誰でも罪があるのであれば、これは避けて通ることのできない道なのである。

しかし自らの罪を悔い改め、私たちの身代わりとなって代価を払ったキリストを信じるのであれば、その限りではないのだ。