エリの息子たち

遠い昔、エリと言う男がいた。エリは祭司であり、神に仕える者であった。前回ハンナに祝福を与えたのも彼であったし、彼女がようやく授かった息子を託したのも彼であった。それを考えると、エリは信頼に値する人物であったのだろう。たった一人の子供の養育を任せるのだから、人としても、祭司としても、それなりの人物だったに違いない。

ところで祭司エリには自身の二人の息子がいたわけだが、父に似て神に仕える者であったかというと、残念ながらそうではなかった。聖書にも見誤ることなく「エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、民にかかわる祭司の定めについてもそうであった。」(Ⅰサムエル記2章12~13節)と書かれているほどだ。確かに彼らは主の宮に出入りすることはあったようだし、捧げ物をを礼拝に訪れた人々から受け取ることができる立場にもあったようだ。おそらく祭司である父の手伝いをしていたのだろう。ところが彼らは捧げものを持ってくる人々に対して「捧げ物を祭司に渡しなさい」と言って手を出し、人々がそれは教えられた方法と違うと言って拒むと、今度は「渡さなければ、力ずくでも奪う」と脅すという具合であった。彼らは祭司の子という特権的な立場を利用して、その権利を神に奉仕するために用いるでもなく、また民に仕えるために生かすでもなく、こともあろうか自らの欲求を満たすために利用したのである。そして本来であれば神に捧げられるべきものを彼らは掠め取ったのだ。

たとえて言うならば、こうである。私が献金の祈りをすることになったとしよう。私の手には献金の入ったかごがあり、礼拝堂の中にいる全ての人々は目を閉じ、心を静めていることだろう。もし私が献金を盗もうと考えていたら、これはまたとないチャンスである。私が欲しているものは、まさしく私の手の内にあり、なおかつ誰一人として見ていないのである。口先では敬虔な信仰者らしく、もっともらしいことを祈りながら、かごに手を突っ込んで中身をひと掴み取り出し、祈り終わる前にポケットにねじ込んでしまえばいいのだから、これほどたやすいことはない。……いやいや、もちろん私はそんなことをしたことはないし、しようと思ったこともないが。

神への供えものに手を出すということには、単なる「盗む」という罪以上の過失があるのではないだろうか。神へ捧げられたものは当然のことながら神のものである。それを盗むということは、神から奪い取ることと同じで、神に対する罪になるのではないだろうか。しかしそればかりではない。同時にそれはいけにえを捧げた人々への罪にもなるだろう。なぜなら、それは人々の信頼を裏切るだけでなく、人々の神に対する純粋な信心に付け入ることにもなるだろう。エリの息子たちは神に対して罪を犯し、民に対しても罪を犯したのだ。

神も二人のすることを看過されるようなことはなかった。神はエリのもとへ使者を送り、こう警告を与えた。「あなたのふたりの息子、ホフニとピネハスの身にふりかかることが、あなたへのしるしである。ふたりとも一日のうちに死ぬ。」(同34節)

ところが二人の息子を罰するだけで済む問題ではなかった。いや、それどころか問題の根本となる原因は、実は祭司エリ自身にもあったのだ。神は使者を通じてエリにこう言った。「なぜ、あなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住む所で軽くあしらい、またあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。」(同29節)

エリが神に仕えていたことに疑いはないであろう。ところが彼にとって一番重要な存在は神ではなく、息子たちだったのだ。もしかしたら彼自身も、自分にとって一番大切なのは神であると信じていたかもしれない。しかし彼は息子たちの罪を目にしていながら、彼らを咎めもしなければ、彼らを正しい道に戻そうともしなかった。それが結果としては神を軽んじることになったのだ。

「神への信仰が一番!」と言うのは簡単であるし、そのように自己暗示に掛けることもできるだろう。しかし人が何を一番大切にしているかというのは、その人の無意識の言葉や行動に現れてくるものであろう。

意識せずとも、神のことばを胸中で繰り返せるようになりたいものだ。