エルアザルの務め

遠い昔、エルアザルと言う男がいた。彼はたったひとつの行いのために、聖書に名を残している。彼はある一時期、主の契約の箱―十の戒めが記録された、神がモーセに与えた石板の納められた箱―を守っていたのだ。ところで、なぜ主の箱が人によって守られる必要があったのだろうか。彼の生きた時代、すなわち年老いてはいたが祭司エリがまだ生きており、彼の邪な息子たちもまだ罰せられておらず、若いサムエルが神によって預言者とされた頃、イスラエル人とペリシテ人とは戦争状態にあった。二つの民族同士の争いは新しいことではなかったが、この時の戦はそれまで以上に激しかったようである。「イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の陣地で打たれた」(Ⅰサムエル記4章2節)と聖書には書かれている。

この戦に勝利をするためにイスラエルの長老たちは、あるひとつの方法を導き出したらしい。それは主の契約の箱を戦場に持ち出すことであった。彼らはこう考えたのだった。「それがわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう。」(同3節)おそらく彼らが考えていたことは、それだけではなかっただろう。もしかしたら、神の箱が民と共におられるということで、人々の戦意を鼓舞させることも考えていたかもしれない。実際人々は主の箱が陣営にやってきたことを知るや、大歓声を挙げたというほどであった。そしてまた、イスラエルの叫びを聞いたペリシテの軍勢をして「神が陣営に来た」と言わしめ、それまで威勢をあらわしていた彼らを恐怖させたほどだった。

このような両陣営の様子を考えると、勢いに乗ったイスラエルの民が、戦意を喪失したペリシテの軍勢を打ち破るのではないかと容易に想像ができそうなものであるが、実はそうではなかったのだ。ペリシテ人は戦意をなくすどころか、むしろ反対で、自らを奮い立たせることになってしまった。結果、イスラエルは三万人もの兵士を失うことになったのだ。その中にはエリの二人の息子もいたそうだ。おまけにイスラエルにとって大勢の兵士を失うこと以上に不幸なことは、主の箱をペリシテ人に奪い去られてしまったということだろう。この知らせを聞いたエリは、息子たちが死んでしまったいうことと、主の箱が異教徒に盗られてしまったという、二重のショックで仰向けに倒れた勢いで首の骨を折って死んでしまったのだ。まったく、悪いことは続くものである。

ペリシテの民はイスラエルに痛手を負わせたことと、その民が最も大切とするものを奪いとったことで、勝利にすっかり酔っていたことだろう。彼らは奪い取った主の箱を、彼らの崇めるダゴンの神殿に納めた。それにしても生きている神の筆跡が記された石板が、異教徒の偶像の前に放置されている様子を想像してみると、何とも皮肉な情景に思えてならない。

それはそれとして、主の箱を奪ってきたことは果たしてペリシテ人にとって良かったのだろうか。確かに彼らにとってはそれは勝利の証のようなものであったかもしれないが、主の箱の正式な所有者である神御自身に対する冒涜でもあったろう。これがペリシテの人々にとって災いをもたらすことになったのだ。「主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人々とを腫物で打って脅かした」(同5章6節)ともあるように、主の箱が運び込まれた場所では人々が疫病に苦しむことになった。さすがにペリシテ人も愚かではないので、最後には主の箱をイスラエルに返すことにした。そしてイスラエルの人々は「それを丘の上のアビナダブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。 」(同7章1節)

さてエルアザルは何から主の箱を守ろうとしたのだろうか。ペリシテ人からだろうか。しかし彼らは自ら進んで主の箱を放棄したではないか。もしかしたら同胞のイスラエルの民から守ろうとしたのではないだろうか。軽々しく主の契約が納められた箱が、人の利益のために持ち出され、再び異教徒の手に落ちないようにするために。

私たちは契約の箱がどこにあるのか分からない。しかし箱は無くとも、神の契約は神のみことばのうちに残されているのではないだろうか。であるとすればエルアザルが主の箱を守ったように、神のみことばを守ることも信仰者としての私たちの役目のひとつなのではないだろうか。神のみことばが人の利益のために利用されることがないように。