サウルのおごり

遠い昔、サウルと言う男がいた。彼はイスラエルの最初の王であったが、何も自ら望んで「我こそは!」とばかりに王となったわけではなかった。実情としては、イスラエルの民が王を求めたのだ。「私たちの上には王がいなくてはなりません。・・・・・・私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」(Ⅰサムエル記8章19~20節)もっともサムエルとしては、人々が王を求めることを快く思ってはいなかった。彼は人々がただ神に目を向け、神のことばに耳を傾け、神に従順であって欲しいと願ったのであろう。完全ではない人間を王とし、その王を自らを委ね、従おうという人々の考えに賛成できなかったに違いない。サムエルは人々の願いを神に伝えた。神はサムエルに答えて言った。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」(同22節)

そこで王として立てられたのがサウルである。彼が王とされたのは、彼が王に相応しい人物であったからということではなさそうである。彼に人に誇ることができるような知恵や知識があったという記録もなければ、彼に壮大な計画や目的があったというわけでもなさそうである。また王になったらどのような施政をするか……という以前に、自分が王になるなどとは考えてもいなかったであろう。そもそも彼がサムエルに出会った時、彼は父親の土地からさまよい出た雌ろばを、父のもとで働いていた若者と一緒に探しに歩いていたごくありふれた青年でしかなかった。

サウルが王になった唯一の理由は、ただ神が預言者サムエルに対して、青年サウルがイスラエルの王となると示したからだ。つまりそれが神のみこころであった。彼が他のイスラエルの人々と目立って違うところと言えば、聖書のことばを借りて言うのであれば「彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった」(同9章2節)ということくらいであろう。

それに彼が神に忠実な者であったかどうかと言えば、これは聖書には何とも記されていないから正確なところは分からない。勝手な想像だが、おそらく彼の信心というのは、他のイスラエルの人々と似たようなものだったかもしれない。目立って信仰が篤いというわけでもなければ、神の存在を完全に無視していたというわけでもないであろう。少なくとも彼はろばを探すにあたって、預言者(つまりサムエルのことである)の言葉を聞こうとしたではないか。つまり彼の信仰心とは、良くも悪くもその程度のものだったということかもしれない。

しかし考えてみると、王として選ばれるに相応しい人物とはどのような者であろうか。群衆を惹きつけるような強烈な魅力を持っている人物の方が望ましいのではないか。その人が正しいことを行うのであれば、人々を正しい方向へ進めることができるであろうし、残念ながらその反対も然り。ところで神がご自身の民を導かせるために王を選ぶとしたら、信仰深い人を選びそうなものである。それこそサムエルのような神に忠実な信仰者、つまり神と人々の橋渡しをすることのできる者を選ぶであろう。さもなくば神に一度は背を向けたが、悔い改めて神に立ち返った者、例えば新約聖書のパウロのような者であれば、人々はその人に神の力を見ることができるのではないだろうか。

ところがサウルはそのいずれでもなかった。彼が秀でていたのはその外見だけだった。それでも彼が王とされたのは、それなりの理由があったのだろう。

さて王となったサウルは、神によって力を与えられたこともあり、その務めを果たすことができた。しかし彼も人であり、人としての弱みというものがあった。彼は預言者が告げる神のことばを無視するということがあった。彼は神にことばに従うことよりも、自らの意志を優先してしまうという弱点があったようだ。彼は神によって王となったことを忘れてしまい、自分が王であるという自我を高め、自分の言葉ですべてが決まると考えるようになったのだろう。

これはサウルに限った問題ではないだろう。ともすれば信仰者であったとしても、人は心のうちでおごり高ぶりやすいものであろう。そうならぬよう、本当の王である神の前に慎み、神に心を向け続けていきたい。