ウザの手出し

遠い昔、ウザと言う男がいた。ウザというのは、あまり聞かない名前である。ここしばらくの間、サウルとかダビデとか、どちらかと言えば名の知られた人物について見てきたので、無名の人物が登場するのは久しぶりである。このウザという人であるが、聖書の中ではここでしか名前が挙がらない程度である。いや、厳密に言うのであれば、サムエル記の後の次の次にくる歴代誌にも登場するのだが、同じ出来事が別の箇所に書かれているだけなので、数に数えなくても構わないだろう。しかしウザにしてみれば残念なことに、聖書には彼の最大にして最後の失敗が記されているのだ。最後というのは、この後彼が過ちを犯さなくなったというのではなく、死んでしまったからだ。死んでしまっては、間違いのしようがないわけだ。

さてダビデがゴリアテを倒した日から時は流れ、ダビデを慕っていたヨナタンはペリシテ人の手に掛かって殺され、王サウルもまた敵に追い詰められ時、彼らに殺されるよりは自ら命を絶つことを選び、小姓に介錯するように命じて果てた。小姓は小姓で自らの喉を突いて果てたというから、まるで戦国の世の話のようである。彼ら亡き後も、サウルの一族とダビデの一族の間でいがみ合いが続いたが、それでも神に認められ、そして民衆に期待され、ダビデは正式にイスラエルの王となった。ところでダビデを王と認めたのはイスラエルの民だけではなかった。長年の敵であるペリシテ人も彼を正当な王として認めたのである。これをきっかけに争いに終止符を打ち、和解をするかと思いきや、彼らはダビデの命を狙うようになったのだ。

しかしながらいかにペリシテ人がダビデやイスラエルを狙おうとも、常に「万軍の神、主が彼とともにおられた」(Ⅱサムエル記5章10節)ので、イスラエルの軍勢は勝利へと導かれるのだった。ダビデは力を増し加え、さらにはダビデの町と呼ばれるほどの要害を築くに至ったのだ。

話は変わるが、その当時、神の契約の箱はどこにあったかというと、アビナダブの家にあったようだ。サムエルの時代にイスラエルの長老たちが戦場に持ち出したばかりか、挙げ句の果てにペリシテ人に奪われたものの、紆余曲折あってペリシテ人から返された時のままということだ。その時の話は前にも書いたことがあるので、ここでは省略する。さてダビデは新たな都に神の箱を運び込もうと考え、アビナダブの二人の息子、ウザとアフヨに牛車に載せて運ばせることにした。

ところが途中バランスを崩してしまい、慌てたウザが素手で箱を支えてしまったのだ。ダビデにとってはもちろんのこと、イスラエルの民全体にとって非常に大事なものであったから、それが固い地面に落ちて傷がつくようなことがあったり、最悪壊れてしまっては大変だということで、とっさのことだったのだろう。それほど価値あるものを守ろうとしたのだから、彼は誉められたり、感謝されたとしてもおかしくはないはずだったにも関わらず、なんと神に打たれてその場で死んでしまったのだ。おまけにダビデは同情するどころか、いたく不機嫌になったというではないか。なんとも浮かばれない最後である。

それにしてもどうして神はウザをこのように罰したのだろうか。神の箱がどう扱われるべきかは、確かに民数記四章で説明されており、彼はその戒めを破ったがために、神が言われた通りに死んだのである。

人間的に考えるのであれば、非常の場合だから例外を認めてくれてもいいのではないかと思うのだが、神の視点から見れば、平常も非常も関係ないのである。果たして神は残酷なのであろうか、それとも公平なのであろうか。おそらくそのどちらでもないのかもしれない。もし人が神を信じ、神に信頼し、神に従おうとするのであれば、人を取り巻く状況というのはどうあっても、それに惑わされる必要はないということかもしれない。それというのも、神はすべてのことを善として下さるからだ。人が何かを変えようと、たとえそれが善意から出たものであったとしても、それが神のことばに逆らうことがあってはそこからは何も生まれてこないのである。むしろ神にすべてを委ねることで、神が良い結果を出してくださることを期待すべきなのだろう。