ツィバの告白

遠い昔、ツィバと言う男がいた。彼はサウルのしもべであったということを除いては、特に目立つところが何もない人物であった。さて前回も見たように、サウルの一族とダビデの一族との関係は、あまり穏やかなものではなかった。しかし彼らの間にどうすることもできない憎しみがあったのかどうかといえば、少なくともダビデの視点から言うならば、そうでもなかったようだ。それを示す何よりもの証拠は、サウルと彼の息子ヨナタンの戦死を知ったときに、ダビデがひとつの哀歌を残したという事実がある。ダビデはこう歌っている。「サウルもヨナタンも、愛される、りっぱな人だった。生きているときにも、死ぬときにも離れることなく、わしよりも速く、雄獅子よりも強かった。」(Ⅱサムエル記1章23節)神に油注がれた者としてダビデは、神に背を向けてしまったサウルに対して妥協することのできないところがあっただろうが、かつての王として、年長者として、人間としてサウルに対して敬意を持っていたことだろう。

そう考えてみると、もしかしたらダビデ本人はサウルの家と争うことを望んでいなかったのではないだろうかと思えてくる。やむを得ない事情や周囲の状況ゆえに、結果としてそうせざるを得なかったのかもしれない。彼の本心はおそらく彼のこの言葉に表わされているのではないだろうか。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。……サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか。私はその者に神の恵みを施したい。」(同9章1、3節)

ダビデはヨナタンとの篤い友情やサウルに命を狙われていたときに彼に助けられたことを覚えており、それに報いるためにもサウルの家の者で生き残っているものがいるのであれば、助けようと考えたのであろう。ただその者を免責するというだけではなく、「神の恵みを施したい」と言っている様子から察せられるに、ダビデはすでにサウルの家に対して何ら苦い思いを抱いていないことは明らかであろう。

そのようなわけで彼はサウルの家の生き残りを探させたのであるが、そこへ現れたのがかつてサウルに仕えていたツィバである。彼はヨナタンの息子がひとり生存しており、他人の家に厄介になっていることを告げた。ところでその息子の名前はメフィボシェテであった。この人は実に不幸な生活を送ってきたようである。彼は五歳の時に父ヨナタン、祖父サウルに死なれてしまい、また乳母のもとで生活していたということは、おそらく母親とも死に別れたか、いずれにしても共に生活はしていなかったようである。そればかりか、攻め寄せるペリシテの軍勢から逃れようとするときに、乳母が抱いていた彼を荒れ地に落としてしまったがために足を負傷し、それからというもの足の自由が奪われてしまったのだ。ほとほと運のない人物だった。

メフィボシェテも自分の立場を理解していたようで、ダビデの前にひれ伏した時にこう言っている。「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」(同8節)ダビデは彼にサウルの地所を返し、また彼が王の食卓を共にすることを許したのだった。まさしくメフィボシェテにとっては奇跡のような話である。「死んだ犬」と自らを蔑んでいた者が「王の息子たちのひとり」(同11節)のような立場に引き上げられたのだから。

それにしてもツィバの一言で、ひとりの人間の人生が大きく変えられてしまったとは……しかしもし彼がダビデの質問の真意を疑って、サウルの家の者で生き残っているものは誰もいないと嘘を答えていたとしたら、メフィボシェテはその一生を「死んだ犬」として過ごし、人の厄介になりながらただ死ぬのを待つだけであったろう。彼のダビデに対する正直な返事が、大げさに言ってしまえば、ひとりの人間を助けたことになったのだ。

神に対して正直であることは、簡単と言えば簡単なことかもしれない。しかし目の前にいる人間に対して同様に正直であることは、時に難しいものであり、適当に返事をしてその場を取り繕いたくなるものであろう。しかし正直に答えることは、結果として良いものを生み出すこともあるということを忘れてはなるまい。何より神はすべてをご覧になっているのだ。人が正直であろうと、そうでなかろうと、神がツィバを見ていたように。