イタイの忠信

遠い昔、イタイと言う男がいた。いや、冗談ではなくて、本当の話である。なんと言っても聖書に登場しているのだから。それにしても痛い……ではなくて、イタイとは何と痛々しい名前であろうか、などと思うのは日本語の分かる人だけだ。まぁ、つまらない話はこれくらいしにて、このイタイという人物であるが、聖書によるとガテ人であったという。ガテ人とはどこの地方の人であるかというと、ヨシュア記の記述によれば、実はペリシテ人の国であった。つまりこのイタイというのは、ペリシテ人だったと考えてもよいだろう。そもそもイスラエル人とペリシテ人とは敵対関係にあるはずなのであるが、なぜイスラエルの王であるダビデのもとに彼は身を寄せていたのだろうか。彼だけならまだしも六百人のガテ人が一緒にいたという。理由は何であれ、彼らがダビデのことを信じて、頼ってきたのは確かであろう。

ところでこの頃、イスラエルは大変に困難な状況にあった。何が起こっていたかというと、ダビデの息子の一人であるアブシャロムが父であり王であるダビデに対して謀反を起こしていたのだ。アブシャロムと言えば、妹を襲われた仕返しに異母兄アムノンを二年経った後に殺害した彼のことである。たとえ事情はあったとしても、兄を殺したうえに、父に反旗をひるがえすとは、それだけを考えるとずいぶんと凶暴な人物であるように思えてしまう。

ところで彼がどのような人物であったかについては聖書にこのように書かれている。「イスラエルのどこにも、アブシャロムほど、その美しさをほめはやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで彼には非の打ちどころがなかった。」(Ⅱサムエル記14章25節)そればかりではない。彼は「イスラエル人の心を盗んだ」(同15章6節)のだった。怜悧にして粗暴という印象だが、人々の心はアブシャロムになびいてしまうのだった。ダビデにとっては実に不利な状況であったことだろう。これは私の想像でしかないが、おそらくイスラエルの人々の間には、ダビデやアムノンの犯した罪が噂されていたかも知れない。悪いことほど隠し通すことが難しいものはない。彼らの目にはダビデが信頼に値しない人物に映ったのだろう。そしてアブシャロムが悪い王様を王座から追放するために立ち上がった英雄として期待されたのかもしれない。アブシャロムがどのような気持ちや考えで謀反を起こしたのかは定かではないが、おそらく人々から崇められ権力者として頂点に立つのは悪い気分ではなかったろう。

しかしアブシャロムもそれに従う人々もここで大きな間違いを犯していたのだが、誰もそれには気付かなかったようだし、仮にもし気付いていたとしても、今までの彼らの行動から察するに、ダビデのもとに戻ることはなかったであろう。すなわち彼らの間違いとは、王を決める最終決定権を誰が持っているかということについて何も思い出そうとしなかったことである。王を決めるのは王となろうとする本人、つまりこの場合はアブシャロムでもなければ、イスラエルの人々の民意でもない。王を王とすることができるのは、神ご自身である。神が油を注がれたのはダビデであって、それ以外の何ものでもなかったではないか。

さて話をイタイに戻すが、彼は異邦人であったにもかかわらずダビデを王として認めており、なおかつダビデに従ったのである。彼はアブシャロムの謀反について知らなかったわけでもないし、ダビデ自身も彼にこう言っているほどである。「戻って、あの王のところにとどまりなさい。……あなたは、きのう来たばかりなのに、きょう、あなたをわれわれといっしょにさまよわせるに忍びない。」(同19~20節)ダビデと運命を共にする義理はイタイにはまったくなかったはずだが、それを承知の上で彼と彼に従うペリシテの人々はダビデを王として従ったのだ。それどころかダビデの言葉に続く、イタイの返答はこうだ。「主の前に誓います。王さまの前にも誓います。王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ず、そこにいます。」(同21節)

イスラエル人よりもイスラエル人らしく振る舞ったのがガテ人イタイだったとは、何という皮肉だろうか。しかし神が選び神によって油注がれた者を王と認めて従うことに、民族の違いはないということだ。神が選んだ王は、すべての国々の民にとっての王なのだから。

もう間もなくクリスマスである。クリスマスこそが、王の王であるイエス・キリストがひとりの人間として、無力な赤ん坊としてこの世に来られという、すべての人々にとって重要な日なのである。