クリスマスツリーに願いを

十二月のこの時期にクリスマスツリーを様々な場所で目にすることは、これといって珍しい光景ではないのだが、ここ二、三年妙なクリスマスツリーを見掛けることが増えたような気がする。ちょっと見た目には、いわゆる日本で見られる平均的なツリーと違うところはないのだが、よくよく見ると「願い事」が書かれたカードのようなものがぶら下がっていたりするのだ。色や形こそ違えど、七夕の短冊のようなものなのである。以前はあまりなかったと思うのだが、私が今まで気付かなかっただけなのか、それとも本当にそのような飾り付けをすることが増えてきたのか……真相は謎に包まれたままである。

七夕に願い事を書いた短冊をぶら下げるようになったのが、昔からのものなのか、それとも近年誰かが思いついたことなのか私には分からないが、どうやら本来の七夕の意味からはずれたイベント的なものになってしまったのではないかと思うのだ。ましてや一般的な日本人にとっては海外渡来の宗教行事であるクリスマスである。おそらく本来の意味を理解するでもなく、年中行事として楽しんでいる人々の方が多いであろう。文化的背景が異なるから仕方がないと言えば仕方がないだろうが、それにしても七夕の短冊なみに願い事を書いた紙をクリスマスツリーにぶら下げるというのは、何とも不思議と言わざるを得ない。もっとも発案した人にしてみれば「何という妙案!」と言いたいところなのかもしれないが、私にしてみれば「何という珍妙!」と言いたいくらいだ。

果たしてクリスマスツリーに願い事を書いて誰に聞いてもらおうというのだろうか。サンタクロースだろうか。いやいや、そんな昼日中に日本各地に飾られているクリスマスツリーの「短冊」を見て歩くほどの余裕はないだろう。大方は誰に聞いてもらうでもなく、ただ漠然と願い事を書いただけであろう。そういえば、日本にはおみくじを神社の境内の木に結びつける風習もあるが、あれも「縁結び」と関係づけて考えられていたらしい。もちろんおみくじと七夕の短冊とクリスマスツリーのカードに直接の関係はないだろうが、どうにも日本人と言うのは(もしかしたら日本人に限ったことでもないかもしれないけど)何かにつけて願い事をするのが好きなようである。縁起を担ぐとでも言うのだろうか。

まぁ、縁起を担ぎたくなる気持ちは分からないでもないし、クリスチャンになって二十年になろうかという私でさえも、一例を挙げるとすれば、私と苦楽を共にさせれば当たるかもしれないとへんな期待を込めて、宝くじを仕事用の鞄に入れて日頃から持ち歩いているというように、何だかんだと縁起を担ぎたくなることがあるくらいだから、こればかりは性質のようなものかもしれない。

もっとも願い事をするにしても、縁起を担ぐにしても、人がその求める何かを、自分なりのやり方や自分なりの言葉で表わしたとしても、残念ながらそれはどこにも届かずにただむなしく消えてしまうのではないだろうか。たしかに自分の内にあるもやもやとした思いを具体的にすることは、悪いことではないし、むしろ自分の考えていることを知るための良いきっかけにはなるであろう。しかしそれを紙に書くだけでは、なんとも勿体ない。だからといって、人に伝えたからどうなるものでもないだろう。他人は他人、その人にもまたその人なりの願いがあるだろうから、人の願いを聞いてそれを実現させるために、ちょっとばかりの応援やできる範囲での手助けくらいはするだろうが、それを超えてまでの時間や体力、また自身の夢や希望のすべてを犠牲にすることはないだろう。

しかし遠い昔、自分自身のいのちを犠牲にしてまで、人々のために尽くした人がおられた。それがクリスマスに誕生されたイエス・キリストなのである。もし人がどのような願いでも、希望でも、望むところをすべて期待し、ゆだねることのできる相手がいるとしたら、このキリストおいて他にはいないだろう。すべての人々のあらゆる罪の代価を自らのいのちをもって支払ってくださったほどの方が、人々の願いを面倒に思うことはあるまい。人の願いが神のみこころに叶うものであれば、何らかの形でそれは実現するのだ。

まさしくキリストの誕生は、人にとっては希望の誕生とも言えよう。