ソロモンの願い事

遠い昔、ソロモンと言う男がいた。ソロモンが誰であるかは、今さら私が説明するまでもあるまい。彼は父ダビデの後を継いでイスラエルの王となった人物である。彼がどのようにして王となったのかを詳しく述べようとは思わないが、彼は自ら望んで王になったというわけではなく、むしろ彼の母が望んだと言った方が正しいかもしれない。そんなこんなで彼自身が望んだかどうかは分からないが、結果として王になったのだった。

しかしながら振り返って見れば、彼の父であり先代の王であったダビデも望んで王になったわけでもなかったし、先々代のサウルにしても願って王になったわけではなかった。彼らは立候補したわけでもなければ、力付くでのし上がったわけでもない。それよりも神に選ばれて、また人々から期待されて王になったという方があっているかもしれない。そう考えてみると、イスラエルの王たちはどちらかと言えば、元来が無欲な人物だったのではないかとも思えてくる。果たしてその反動なのか、王になって権力を手にしたことによって、それまで鳴りを潜めていた欲が姿を現わしたのではないかと思われる行動が目立つようになった。サウルはあくまでも王位にしがみつこうとしたし、ダビデは部下の妻を奪わんとして、その部下を意図的に危険な場所に送り込んで死なせてしまったではないか。また自ら王位を欲した者たちも、求めたものを手にいれることができなかったばかりか、自らの命さえをも失ってしまったではないか。なるほど欲というものは、人を迷わせるものであるというは、確かなのかもしれない。

さて、イスラエルの王のことはひとまず置いておくとして、もし私たちがどんな願い事でもいいからひとつだけ叶えてあげると言われたら、私たちはどのようなことを願うだろうか。もちろん「どんな願いでも実現させる力」というのは無しである。ひとつだけと言われてしまうと、結構悩むものである。欲深い私でさえも即答に困ってしまう。いや、ひょっとしたら欲深いからこそ、何を願うかを決めかねてしまうのかもしれない。あれも欲しい……これも捨てがたい……という具合なので、まさしく「二兎追うものは一兎も得ず」を地で行くようなものだ。それでも強いてひとつだけ願い事を挙げるとしたら、やはり「宝くじ一等前後賞合わせて三億円」であろうか。もっとも前回の年末ジャンボも前々回の年末ジャンボも、その都度三千円注ぎ込んで買ったわりには、十分の一の三百円しか当たらないという、実に残念な結末を迎えたのが実際のところなのであるが。いやはやイスラエルの王やその座を狙った者たちのことを考えるまでもなく、実体験として欲を出しても何も得られないことは理解できる。

ところで……「主は夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。『あなたに何を与えようか。願え。』」(Ⅰ列王記3章5節)

その問いにソロモンはこう答えた。「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」(同9節)

彼が求めたものは、実は知恵であった。彼は負け知らずの強い軍隊を求めたのでもなければ、多くの子孫に恵まれることを願ったのでもなく、国民の忠誠心を欲したのでもなかった。彼が唯一望んだものは、自身が賢くなることであった。彼は自らをこう評した。「わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。」(同7節【新共同訳】)王は自らに欠けており、この先最も必要になるであろうはずのものを求めた。彼は知恵を求めたとあるが、だからといって愚かであったとは思えない。なぜなら彼は自らに足りないものが何であるかに気付いていたではないか。私もそうであるが、おそらく多くの人々は必要とするものではなく欲するものを願うのではないだろうか。

神はソロモンにこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。……今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。」(同11~12節【共】)そればかりか、神はソロモンが求めなかった富も栄誉も与えると言い、また神の前に正しく歩むのであれば、彼の日数を長くするとも言ったのだ。

どんなものでも与えることのできる神に、人は何を願うのか。欲で考えるのではなく、何が必要かで考えると、人は願う以上に多くの祝福を受けることになるのではないだろうか。