モルデカイの信念

遠い昔、モルデカイと言う男がいた。彼はエステルという娘の養育者であったということは、旧約聖書のエステル記に書いてある通りである。「モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわち、エステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。」(エステル記2章7節)おじの娘ということは、すなわちモルデカイとエステルはいとこ同士になるわけで、現代の感覚からすると違和感を感じてしまう。さてそれはそれとして、エステル記というのはその名が示すように、エステルがヒロインの物語である。そう考えると、モルデカイは脇役のような存在に思えてしまうが、彼なしではヒロインも存在し得ないわけだから、脇役というよりも陰の立役者と見るべきなのかもしれない。

ところで彼の一番の働きはエステルを育てたことであろうか。これは私の考えでしかないが、そうだとは思わない。俗に、親がなくとも子は育つと言うように、もしモルデカイがいなかったとしたら、もしくは彼が従妹の面倒を見るのを拒んだとしたら、おそらく他の誰かが彼女を育てたことだろう。この聖書の話では、エステルはペルシヤの王に見初められて王妃となるのだが、これがモルデカイの一番の功績かというと、そうではないと私は思う。彼が育てなかったとしても、彼女は王妃となるに相応しい女性になったかもしれない。もしかしたら独り身のモルデカイが面倒を見るよりも、彼女を才色兼備な女性に育て上げることのできた人物がいたかもしれない。

むしろモルデカイが取った行動の中で最も重要なことは、エステルとは直接関わりのない時と場所でのことかもしれない。もっともそれは私の考えでしかないわけだが。それが何であるかというと、ちょうどエステル記にこのように述べられているところである。「それで、王の門のところにいる王の家来たちはみな、ハマンに対してひざをかがめてひれ伏した。王が彼についてこのように命じたからである。しかし、モルデカイはひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかった。」(同3章2節)

まずここに至るまでの経緯を簡単に言うと、ペルシヤ王の家臣で王の命を狙っていた者たちがいたそうな。彼らの話を耳にしたモルデカイは従妹エステルを通じて、彼らの企てを王に知らせた。さて逆臣たちが処罰されたまでは良かったのだろうが、問題はその後のことだった。王はハマンという名の人物を重用し、彼の地位を上げたのだったが、彼がくせ者だった。舞台をちょっと変えてたとえてみると……藩主を殺めようと画策した番頭が、その企みが露呈したことにより斬首され、その一方で奸佞の人物が時勢に乗って筆頭家老まで成り上がったようなものだろう。

さて権力の座に着いたハマンは何をしたのだろうか。彼は王の家来を自身の前に跪かせ、ひれ伏せさせたのだった。すなわち彼はすべての者を服従させ、自らの意のままにしようと狙ったのだろう。彼は王から重用にされているのを良いことに、王を通じて自分に都合の良い命令を出させたのだった。見方によっては、王に忠実であるかのように振る舞いながら、実際は王を利用していたと言えないこともない。

しかしモルデカイはハマンに対抗したのだった。彼がハマンに膝を屈しなかったのは、王の命令を軽んじていたからではないだろう。彼がイスラエル人として、神以外の何者に対してもひれ伏さないと心に決めていたからなのでは、と私は思う。ところがこれに腹を立てたハマンはモルデカイ本人だけでなくイスラエル人全体に敵意を抱き、彼らを根絶やしにしようとするのだった。結果から言うと、エステルの取りなしによってイスラエルの民は救われ、反対にハマンの家が根絶やしにされてしまったのだ。まさにそれがエステル記の主題なのである。

ところでモルデカイが安易に膝を屈していたらどうなっていただろうか。おそらくイスラエルの民はモルデカイがそうしたようにハマンに対して、すなわちペルシヤの権威の前にひれ伏したことだろう。そうすることで彼らは外面的な生活や自由や生命を保障されただろうが、自分たちの神を礼拝する自由を犠牲にすることになったであろう。信じることを貫き通すことが、何者にも負い目を感じることのない本当の自由を手に入れることになるのではないだろうか。