ヨブの不幸

遠い昔、ヨブと言う男がいた。彼について聖書にはこう書いてある。「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。」(ヨブ記1章1~3節)まさしく順風満帆を絵に描いたような人生を過ごしていた。人として立派であっただけでなく、信仰者としても確かであった。そして家族にも恵まれ、仕事も順調であり、経済的にも何一つ不自由を感じていなかった。誰もがうらやむ生活を送っており、不幸や絶望とは無縁とも思える人だった。

ところがある日のこと、突然の不幸が彼を襲ったのだ。「シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。」(同15節)「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。」(同16節)「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。」(同17節)こうしてヨブは職を失い、財産を失ってしまった。しかし不幸はそれだけでなかった。これらの悪い知らせが続々と届くなか、また使いがやってきて、すでに打ちのめされているヨブにこう伝えた。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で宴会を開いておられました。そこへ荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。」(同18~19節【一部新共同訳】)

恨み言のひとことやふたことくらい言いたくなっただろう。しかし彼は神に文句を言うこともなければ、不満の言葉も怒りの言葉もなかった。泣き言の代わりに、彼の口から出たのは神への賛美だった。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(同21節)

彼の信仰がどれほどのものであるかをうかがい知ることがる。中途半端な信心であったら、こうはいかなかっただろう。ヨブの信心深さのゆえに、神が彼を慰めて下さったかと言えば、そうはいかなかった。それどころか、さらなる不幸に見舞われてしまった。こともあろうか次は彼自身が健康を害してしまい、ヨブは「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で」(同2章7節)覆われてしまったのだ。おまけに彼の妻は彼を慰めるどころか、冷たく言い放った。「神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」(同9節【共】)すでに限界まで追い詰められているヨブをさらに追い詰めるかのように、彼の信仰と彼自身の生存が真っ向から否定されてしまったのだ。それも他人からではなく、一番身近でヨブを支えてくれるはずの妻によってである。

たとえて言うならば、まるで天国から瞬時にして地獄に突き落とされたかのようだ。なぜ彼はこのような目に遭ったのだろうか。顧みれば、四十年間荒野をさまようことになったイスラエルの民は、不信仰が原因で約束の地に入ることができなかったではないか。それを考えると不信仰の結果は困難と苦労であることがわかる。しかしながらヨブは彼らとは一緒にできないだろう。それどころか彼は誰にも負けないほどの信仰の持ち主であったことは明白であろう。ヨブにとって不幸だったことは、その信仰の強さに目をつけた悪魔が、彼の身に不幸が起きれば、信仰なんて捨ててしまうだろうと、神を挑発したことだろう。神はヨブ本人の命を奪うのでなければ、どのようなことをしても構わないと悪魔に許可を与えたのだった。

このようなわけで彼の身に不幸なことが起きたのだ。それはそうと人というのは不思議な生き物で、不幸自慢なるものをすることがある。理由は分からない。自分の境遇を人に知ってもらって、同情してもらいたいのだろうか。それとも自分よりも不幸な人を見つけて、優越感にでも浸ろうとでもするのだろうか。いずれにせよ健康なことではあるまい。

ヨブはこの後どうなっただろうか。聖書にはこう書いてある。「主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。……主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。」(同42章10、12節)

苦難は一時、祝福は永遠なのである。