ヨナの愚痴

遠い昔、ヨナと言う男がいた。ヨナは預言者であった……が、模範的な信仰者であったかというと、どうも疑わしい。彼について一番知られている話といえば、やはり大きな魚に飲み込まれて、生臭い魚の胃袋の中で三日三晩を過ごしたことであろう。預言者と言うと、やはり神のみことばを人々に伝えるのが主たる役割であり、それを考えると神に対して忠実な人物であると考えてしまう。少なくとも聖書を読む限りでは、神のみことばを伝えるために働いた人々というのは犠牲を惜しまずに、その目的のために一生懸命になった人ばかりのように思われる。また聖書には書かれていなくとも、歴史に名を残す信仰者には、そのような人々が多いのではないだろうか。考えてもみれば、神のみことばを伝えるという使命に忠実であればあるほどに、自らのことであれこれと思い煩う余裕などなくなるに違いない。

ところでヨナであるが、そのような典型的な預言者とはちょっと違った。彼はあからさまに神の言いつけから逃れようとしたし、また神のなさることのいちいち文句をつけたり、愚痴をこぼしたりと、どうにも従順とは言い難い人物であった。神がニネベへ行けと彼に命じたら、彼はまるで別の方角へと船に乗って逃げ出してしまったほどだ。当然、神はヨナを見逃さなかった。彼の乗った船は嵐に遭遇し、最終的に神の怒りを静めるために、船に乗り合わせた人々は彼を荒海のなかへ放り出したのだった。

ところで面白いことにヨナは人々にこう言ったのだ。「私を捕えて、海に投げ込みなさい。」(ヨナ書1章12節)これは私の想像でしかないのだが、彼自身が海に放り出されることを望んだ理由というのは、嵐の被害に遭っている他の人々に対する責任を果たすというのもあったかもしれないが、それよりもニネベに行かざるを得ないのであれば、いっそのこと溺れ死んでも構わないというヨナ自身の自暴自棄な考えがあったのかもしれない。そんなこんなで死を覚悟して海に突き落とされたヨナであったが、彼がそれを望んだかどうかはこの世では永遠の謎であるにしても、神は彼を救ったのだった。それも普通に助けたのではなかった。巨大な魚を送り込んで、ヨナを胃袋に納めてニネベまで無理矢理連れて行ったのだ。さすがのヨナも魚の胃袋という暗い場所に閉じこめられて、自らの行いを反省したようだ。「私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。……私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」(同2章2、9節)

これでヨナが心を入れ換えたかというと、それがヨナのヨナらしいところかもしれないが、そうでもなかったようだ。さすがに魚の腹の中のことがあったので、彼は神の命令に従い、ニネベの町で神のことばを伝えた。そしてヨナを通じて神のことばを聞いたニネベの人々はどうしたであろうか。聖書にはこう記録されている。「そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。このことがニネベの王の耳にはいると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。」(同3章5~6節)

その様子をご覧になった神はどうしただろうか。「神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」(同10節)

それまで神を知らなかった人々が神を知り、罪を悔い改めて神の前にへりくだったのだ。また神も彼らを赦され、彼らを救われたのだ。これは本来であれば、喜ぶべきことであろう。ニネベの人々に神のことばを伝えたヨナにしてみれば、彼の働きが実を結んだということにもなるので、彼らと喜びを共有し、神に感謝を捧げてもおかしくはないだろう。いや、神から遣わされた預言者なのであるから、そうするのが自然なのかもしれないが、その反対に彼はニネベの人々が救われる様子を見て腹を立てて、こう言い放った。「生きているより死んだほうがましです」(同4章3節)

余談までに、私は旧約聖書に出てくる人物のうちでもヨナが一番好きである。その素直でないところや愚痴っぽいところに共感を覚えてしまうのだ。完璧からはほど遠く、はっきり言って模範的な信仰者ではないが、それでも神への信仰だけは失わないところが、どこか自分自身の姿と重ねてしまうのだ。

ヨナのその後がどうなったのかは分からない。もしかしたら、愚痴をこぼしつつも神に付き従って地の果てまで神のことばを伝えていったかも知れない。