二兎追う者は

人という存在がもとより欲の深い生き物なのか、それともただ私の欲が目立って強いだけなのか、いずれにせよ私の頭の中には常に様々な欲望が渦巻いている。もっともこんな私であるが、豆粒程度のわずかばかりの理性はあるようで、辛うじて自制することができているらしく、それらの欲望のままに生きているわけではない。もちろんそれらの欲望を実現する能力に欠けているというのも理由の一端かもしれないが。やりたいことをすべてやることができるわけでもなければ、欲しいものを何でもかんでも手に入れることができるというわけではないというのが現実である。

実際、二兎を追う者は一兎も得ず、という諺もあるではないか。ところでその情景を思い浮かべつつ、勝手にその後を想像などしてみると、結末は明るくなさそうである。例えば、一人の人が草原で白毛の兎と黒毛の兎を見掛けたとしよう。細かい事情を追及するのはやめにして、どうしようもないほどその人は空腹を覚えたので、一羽では足りないかもしれないと思い、二羽とも捕まえて食べようと兎に飛び掛かったのだが、その動物的な本能で危険を察知した兎たちはどうしたかというと、白毛は左へ、黒毛は右へ逃げてしまった。残念無念、その人の着地した先には兎はいない。それどころか足場が悪かったら無事に着地できないばかりか、下手をしたら足首を捻挫してしまうだろう。そうなると状況はさらに悪くなってしまいそうだ。ただでさえ腹が減ってへたばっているところに、足首の痛みが加わってしまうのだから、これでは草原でひとりぼっちで残されて、誰かに発見されなければ飢え死にしかねない状況である。今さら一匹だけに狙いを付けて、地味に罠でも仕掛けておくべきだったと考えても手遅れである。

人は欲に駆られてしまうと、結局のところ何も得ることができないというのは、おそらく誰もが納得するところであろう。欲張ったところで、損をすることはあるかもしれないが、得することはないのである。

ところで似たようなことは信仰においても言えるのである。イエス・キリストは弟子たちに教えるなかでこのように言っている。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。……あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6章24節)

キリストは人にはふたつの選択肢があることを言わんとしているのだろう。すなわち神を選ぶか、それとも富を選ぶかということであろう。しかしながらここで言う富とは必ずしも金銀財宝の類だけを示しているわけではないと私は思うのだ。それというのも旧約聖書の時代、神はイスラエルの人々にこのように命じられたことがあったではないか。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト記20章3節)

すなわち神に仕えるようとする一方で、他の「神々」にも同時に仕えることはできないのである。「神々」が何であるかは、人それぞれであろう。富を得るためならどのような労苦も厭わない人にとっては、富が神であろう。自分の夢を実現させるためならば手段を選ばぬという人にとっては、自らの夢が神となろう。人が熱意や時間や労力をどこに費やすかによって、その人にとって何が「神」であるかを伺い知ることができるのではないだろうか。

私は神を信じていると、口に出して言うことは簡単である。おそらく信仰者であれば、その言葉にも気持ちにも嘘や偽りはないに違いない。私も一人の信仰者として、自信を持ってそう言うことができる。しかし自らの行動がそれを表わしているかというと、申し訳ないがどうも自信がない。どうやら私も神への信仰という兎と、この世の快楽という兎を追う者でしかないのだろうか。

人は二羽の兎を追うことはできない。人は異なる二人の神に仕えることはできない。真実の神を求めるか、それとも自分の作り上げた神を求めるか、人はどこかで選ばなければならないのだ。どちらを選ぶかは、人の自由である。しかし真実の神を選んだからといって、その神以外のすべて諦めなければならないわけではない。なぜなら神は人が何を求め、必要としているかをよく存じておられ、惜しみなくそれを与えて下さるからだ。一匹の兎を追ったら、いつの間にやらもう一匹も捕まえたということもあるだろう。