国籍

先日ぼんやりとこんなことを考えていた。私が最後に海外に出掛けたのは、今から九年ほど前に新婚旅行でタヒチに行った時だったなぁ、と。そんなことに思いをめぐらしていたら、ふと気がついたのだ。もしかしたら私のパスポートは既に期限が切れているのではないか、と。確かに覚えていることは、最後に申請した時は将来的に使うことができるようにと、有効期間が十年のパスポートを作ったはずだということだ。あわよくば、まだ有効期限が残っているかもしれないと期待しつつ、パスポートを引き出しの奥から引っ張り出して、改めて見てみると……残念、すでに去年の11月に失効していた。

つまりこういうことだ。もしまた私が海外に行くとなったら、再申請をしなければならないのである。必要な書類を準備して、申請書に記入して、パスポートセンターまで出向いて、などとあれこれ考えると面倒に思えてしまう。しかも以前と同じように有効期間が十年のパスポートを作る場合には一万六千円、仮に期間が半分の五年でも一万二千円も費用が掛かる。果たしてパスポートなんてそこまで手間や予算を掛けてまで取得するほど価値があるものなのだろうか……というのは、所詮海外に行くだけの理由も、時間も、金銭もない私の僻みでしかないのだろう。もし海外に行けるのが分かっていれば、きっと私は嬉々としてパスポートセンターまで出掛けて、高価な収入印紙をためらうことなく買っていることだろう。が、いずれにせよ今の私には縁のない話である。

そんなわけだから、日本に生まれてきたからには、私はこの国から外に出ることは叶わないのである。なぜなら私は日本国籍を保有しているからであり、私が収まって然るべき場所は日本をおいて他にないということだ。そこで思い出した。国籍と言えば、聖書にはこのようなことばが書いてある。「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3章20節)

どちらかというと有名な箇所なので、クリスチャンであれば必ずどこかで聞いたことがあるだろうし、その意味も誰もが知っていることであろうから、今さら説明することはないかもしれない。しかしながらひとことで「クリスチャンの国籍は天国にある」と言ってしまうと、間違いではないにしても、どことなく素っ気ないうえに、何となく説得力に欠けるようでもある。

というわけなので、もう少し時間を掛けて考えてみよう。ここに出てくる「私たち」というのは、誰のことであろうか。パウロがマケドニア地方の都であるピリピに住むキリスト者たちに宛てた手紙の中に出てくることを考えると、パウロとピリピの信仰者たちであろうということになる。そうすると、ちょっとひねくれた考えをすれば、今の自分には関係ないと言えないこともない。しかしパウロは「私たち」についてこのようなことも言っている。「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たち……」(同3節)

それでは「天」というのは、どこを示しているのだろうか。天についてパウロはこう書いている。「そこ(天)から主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(同20節)

つまり「私たちの国籍は天にある」といことばをもう少し具体的に言うとすれば、こうなるのではないだろうか。「キリストを頼る者の国籍はキリストがおられる場所にある。」そのように改めて読み直してみると、今までは当然のことが書いてあると、軽い気持ちで読んでいたことばが、実はすごいことを言っているということに気付かされるのではないか。

さて日本国籍を持っている私は、国民として義務を果たすのであれば生活が守られ、法を犯さない限りは自由が保障されているのである。すなわち私たちが天の国籍を持つということは、私たちはキリストがおられる場所において、その自由が認められ、その生活は約束されていることになるのだ。そしてキリストがおられる場所とは、天国だけではない。キリストは人のように場所と時間に縛られることのないお方である。つまりキリストは今この場所におられかもしれないのだ。つまり私たちがいつどこにいようとも、キリストの庇護の下にあるのだ。ただキリストを信頼しさえすれば、私たちは何も心配に感じる必要はないし、将来にわずかな不安を抱く理由もないのである。