一粒の麦

ちょっと前まではクリスマスほどに知名度が高くはなかったイースターであるが、きっかけは様々であろうが、近年では一般にも知られるようになったように見受けられる。もっともイースターとだけ聞いてしまうと、クリスチャンでもなく、海外のカレンダーに詳しくない人にとっては、もしかしたらイースター島のモアイを連想してしまうかもしれない。とは言っても、最近ではインターネットで検索すればイースターが何であるか、すぐに調べることができるので、便利な世の中になったものである。ざっと見たところでは「イエス・キリストの復活を祝う記念日」とか「キリスト教の復活祭」などと説明されているので、世間一般での認識もあながち間違ってはいないようだ。

それらの解説にもあるとおり、キリスト者にとってイースターと言えばキリストが復活されたことを覚えて祝う日であることに間違いはない。しかしそう言ってしまうと「キリストはよみがえられました、めでたし、めでたし」という印象ばかりが先走っているように感じるのは、はたして私だけであろうか。だとすれば、復活祭の最も肝心なところが見えてこないように思われる。その奥深くにあるものを知るには、それが私たち自身にとって、どのような関わりがあるかを理解しておく必要があるのではないだろうか。ただ傍観しているだけでは、キリストが復活したことを、単なるおとぎ話におとしめてしまうのではないだろうか。キリストの復活を理解するには「なぜ」「どうして」を知らなければならない。

まず意識しなければいけないのは、キリストが死なれたという事実である。考えてもみれば残酷な話かもしれないが、キリストが死ななかったら、復活というものは起きなかったはずだ。キリストは彼自身の弱さの故に死なれたわけでもなければ、彼を憎んでいた人々の手に掛かって、騙し討ちにあって殺されたわけでもない。もしかしたらそのように見えるかもしれないが、それは上っ面でしかない。何と言ってもキリストは神のひとり子であり、神としての権威を持っていた。それはラザロを生き返らせたことからも分かるであろうし、彼が行った奇跡の数々から伺い知ることができよう。彼が死を避けようと願ったのであれば、そうすることもできたのである。神の子として不死身になろうと考えたのであれば、そうすることもできたのである。しかしキリストはその道を選ばなかった。また彼は死を恐れていなかったわけでもないだろう。それこそ彼は生きることを願ったかもしれない。

しかしそれでも、彼は死を選んだのだった。なぜだろうか。それは罪のために誰かが死ななければならなかったのだ。罪の償いの代価を、罪を犯した者のいのちをもって支払うか、さもなければ汚れのないものがいけにえとして捧げられなければならなかった。もしキリストが不死身になることを願ったのであれば、私たち自身が自らのいのちをもって、罪の代価を払わなければならなかったのだ。もしキリストがこの地上で永遠に生きることを選んだのであれば、私たちは永遠という時間を、神から完全に切り離された暗い地の底で過ごさなければならなかったであろう。

そして復活祭の理由でもあるキリストのよみがえりである。キリストがよみがえられたのは、彼が死よりもいのちを望んだからではない。もし彼が復活することなく、今日までどこかの墓に埋葬されたままだとしたらどうだろうか。もしかしたら「イエス・キリスト、ここに眠る」とばかりにキリストを慕う人々の巡礼地になったかもしれない。もしそうだったとしても、人々はキリストに対する信仰を持ちつづけることができたかもしれない。しかし「信仰」だけで人は生きていけるのだろうか。人は満ち足りることができるのだろうか。生きることに喜びを見出すことができるのだろうか。墓に眠れる「救い主」に希望を持つことができるのだろうか。残念ながら、そのようなことはないだろう。

キリストはよみがえって、再びこの地上を歩まなければならなかったのだ。なぜなら、復活をはたした救い主にこそ、私たち自身のよみがえりの希望を望むことができるからではないだろうか。キリストがよみがえられたのであれば、私たちも肉体的には一度は滅びることがあったとしても、キリストがそうであったように、やがてはよみがえりのいのちを得るのだと、期待できるのではないか。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネの福音12章24節)