見えなくとも

今年の冬はいつもより長かったように感じた。寒い日がいつまで続くのかと思ったものである。しかし私の気付かぬ間に季節は移っていたようだ。いつになったら咲くのだろうかと、通るたびに見上げていた桜の木の枝に、ようやく少し花が咲くのを見つけたら、さほど日を置かないうちに、枝という枝が薄桃色の桜の花に包まれていたという具合だ。春があっと言う間に来てしまったのか、それとも桜の花があっと言う間に咲いてしまったのだろうか。それにしても桜というのはせっかちな花である。徐々にゆっくりと花を開かせるのでなく、一日二日ほど見ないでいたら満開になってしまうとは、何と慌ただしいことか。満開になったから、次の週末にでもゆっくり見に行こうかと思ったら、半分くらいは花が散ってしまう。静かに花を開き、しばらくそのままで見る者の目を楽しませ、やがて忘れられた頃に散る……という優雅なイメージとはほど遠い。ぱーっと咲いたと思ったら、ぱーっと散ってしまうのだ。華やかであることに違いはないが、何か物足りないようにも思われる。もっともそれが良いという人々もいるのかもしれない。

それにしても一年365日あるなかで、ほんの数日だけ鮮やかに花を咲かす桜というのは、どうしてもこの季節にだけ注目されてしまうようだ。たしかにこの時期を除いては、さほど見るところのある木ではないだろう。ひらひら花びらが風に舞いながら落ちるのは風情があるかもしれないが、その後には毛虫と毛虫の糞が落ちてくるのだから、それを考えるとできるなら近づきたくないとさえ思う。おまけに桜並木の近所に住んでおられる方々にとっては、春には風に散らされた花びら、秋には落葉の掃除をしなければならないので、花が咲いたと喜んでいるだけでは済まされないだろう。

さて桜の木は一年通して、ずっと同じ場所に立ち続けるのだ。足が生えてるわけではないから、当然といえば当然である。花を咲かす春だけではない。夏には青々とした葉を茂らせるし、秋になれば葉を色づかせ、冬になれば丸裸にされてしまう。誰が見るというわけでもないが、桜の木はそこにあるのだ。しかし果たしてどれほどの人が花の咲いていない桜の木に目を向けるだろうか。それに価値を見出すだろうか。おそらく少ないのでは。

そう考えてみると、桜に限らずとも、つねに存在しているにも関わらず、ほんのわずかな時間だけ注目されて、あとの残りの時間は世の中から忘れ去れてしまったかのように、ひっそりと時を過ごしているものが多くあるのではないだろうか。桜のように決まった季節に咲く花などの植物はそのひとつかもしれない。秋になってからチューリップの花を探す人はいないだろうし、春にかえでの木を眺める人も少ないだろう。花に限らずとも、一世を風靡するような著名人などもそうだろう。ふと思い出したように「そういえば、あの人って今はどうなっているんだろう?」と考えたり、まったく失礼な話かもしれないが「あれ、まだこの人生きていたんだ!」とか気付くことがあるだろう。私たちが忘れただけで、そのような人たちはどこかで営みを続けているのである。

自らを振り返ってみると、同じようなことが自身の信仰においても言えるのではないかと感じることがある。クリスマスやイースターになるとイエス・キリストのこの地上での働きについて思いをめぐらすことがあるが、はたしてそれ以外の時に、キリストの行いについてどれほど考えることがあるだろうか。確かに聖書を読めば、その時には考えるだろう。教会に行けば、それもまた考えるきっかけになるかもしれない。しかし聖書を読み終わってから、もしくは教会の玄関を出てからしばらく経ってしまうと、キリストが何をなさって、どのように過ごされたかについて考えることが時間と共に減ってしまうようだ。もちろん信仰心が薄まるというわけではない。キリストを信じることに違いはないのだが、ただその信じ方が漠然としたものになってしまうのだ。信仰の具体的な対象が曖昧になってしまうと、それがキリストに栄光を帰すための信仰から、「困った時の神頼み」的な自分の都合にあった信仰になってしまうのではないだろうか。

私の目に見えないからといってキリストが何もしていないというわけではない。たしかにキリストは聖書の時代と同様に今も働かれているのだ。私が忘れかけているだけであって、気付いていないだけなのかもしれない。キリストがどのように生きたかを、つねに心に留めておきたい。そうすれば、今でもキリストを身近に感じることができるのでは。