風のように

当たり前のことだが、風というのは目に見えない。しかし見ることはできないけれど、風があることを疑う者はひとりもいないだろう。なぜなら風というのは見えなくとも、感じることができるし、また風がきっかけとなって起きる様々な現象を見ることができる。つまり間接的に風を知ることができるのだ。凍てつく真冬の朝に風が吹けば、刺されるような痛みを感じ、それで風を知ることができるようなものだ。風があるのを知りたければ、目を開くまでもない。むしろ目を閉じて、じっと外に立っていれば、風が過ぎて行くのを感じることができるだろう。もちろん目を開いていても構わない。空を見上げれば流れる雲を見ることができる。水面を見れば風にさざ波が立つのを見ることもできる。草や花や木を見れば、葉や花びらが風に揺れるのを見ることができる。道を歩いていれば、紙くずやコンビニの袋が風に舞うのを見ることができる……が、あまりこれは見ていて気持ちの良いものではない。

果たして風はどこからやってくるのだろうか。風に始まりなどあるのだろうか。科学的にはどうであれ、感覚として分かるのは、風に始まりなどとはないだろうということぐらいだ。また風がどのようにして生じるのかについては、いくつか理由があるだろう。身近なところでは、ウチワで扇いだり、扇風機のスイッチを入れたりすれば、風を作り出すことは簡単にできる。つまり空気が動けば風になるのだ。自然に発生する風も、空気が動くという点においては違うことはないだろう。ただスケールが大きくて、空気の動きと言うよりは、大気の動きという方が適切かもしれない。

つまり私たちを取り巻いている目に見えない大気が動いて風になる。大気も風も目に見ることはできないが、それがもたらす現象については、はっきりと五感で感じ取ることができるのだ。時にそれは嵐となって世間を混乱させることもあるし、そよ風となって人に快感を与えることもある。誰も風の存在を否定することはできない。

ところで風と言えば、イエス・キリストのこのようなことばが思い出される。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネの福音3章8節)

また使徒の働きには、このような記述を見られる。「すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。……すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒の働き2章2、4節)

どちらの箇所も風と御霊が出てくるところが一緒である。そこに深読みをするつもりはないにしても、何かしら共通するところがあるかもしれないと私は思うのだ。例えば、使徒の働きを読むと「激しい風が吹いてくるような響き」の後に、弟子達は神の霊に満たされたとある。つまり聖霊は風のようにやってきたと考えることもできよう。風のようであれば、どこからやってきたのかは誰にも分からなかったし、誰もそれがやってくるところを目で見ることはなかったであろう。しかし彼らはそれを感じることができたのだ。それもただ感じただけではなく、彼らはその聖霊の風を真っ向から受けて、それに満たされたのである。見えないものであっても、弟子たちは御霊の存在を知ることができたのだ。

またヨハネの福音でイエスがニコデモに語ったことばを見てみよう。御霊によって生まれた者、つまり聖霊によって新しいいのちを得た信仰者たちは風のようであるという。彼らはどこからやってきたのか分からないと言う。もちろん人間であるからには、人の目に映らないわけはないのだが、彼らは鳴り物入りでやってくるというわけではない。つまり人が気付かないように、ひっそりと静かにやってくるという意味だろうかと私は思う。しかし彼らの言葉や行いは、風が様々な現象を起こすように、人々の目に見え、彼らが信仰者の存在に気がつくことになるのだろう。

信仰に生きるのであれば、それを大々的に人に触れ回る必要はないのかもしれない。それはキリストが望まれるところの証しではないのかもしれない。それよりも、信仰者として、いや信仰者だからこそ残すことのできる何か、人々が見たり聞いたり感じたり、そして知ることのできる言葉や行い、すなわち神を指し示すことのできる道しるべを残すことが、キリストがご自身に従う者に願っていることかもしれない。