人がひとりでいるのは

ふと会社を休みたくなることがある。もちろん仮病を使おうだとか、無断欠勤をしちゃおうだとか、そういう意味での休みではない。きちんと手順を踏んで、正々堂々と休むということである。などとうそぶいてはみたものの、方法はどうであれ、やりたくもない作業を依頼される予感がするとか、参加せずに済ませたい会議があるとか、根本にある理由は同じたったりするのだ。要するに、イヤなことはやらずに済ませたい、ということである。もっともそんな我儘な理由で会社を休んでしまったら、後悔することになるのは火を見るよりも明らかなので、重い体を鞭打ってでも会社に行くのである。そんなわけだから、会社を休むことができるのは本当に具合が悪いときか、何か別に用事があるとか、仕事の暇な時とか、言ってみればそれくらいのものである。おかげで有給休暇が消化不良を起こしてしまいそうだ。

ところで珍しく、熱を出したとか貧血になったというわけでもなく、銀行とか役所に行かなければならない事情があるわけでもなく、これと言った理由もなく仕事を休めたとしよう。ここぞとばかりに、普段はできない朝寝でもして昼頃に起きて、適当に食事をして、レンタルしてきた映画の一つや二つでも見て過ごそうなどと、あれこれ計画にもならないような計画を考えたりするのだが・・・・・・現実はそんなに甘くない。そんなぐうたら過ごす私を放っておく者は残念ながらいないだろう。

うむむむ。私は仕事に行こうと、家にいようと、他のどこへ行こうとも安らぎを得ることができないのであろうか。「いやいや、そんなことはない、教会に行けば平安を得られる」というのはいかにもクリスチャンらしい模範的な回答かもしれないが、まぁ、確かに信仰的な意味ではそうであろうことを否定はしないが、はたして私が求めているものがそれであるかというと、残念ながらそうでもない。

つまり私にとっての休みとは何だろうか。ひとことで言ってしまうと、一人になりたい、というだけのことである。ただ孤独が好き、ということも否定はしないし、何やら孤高な理由があるというわけではない。何のことはない、人と接触するのが気詰まりに感じるだけであり、なるべくなら避けたいというだけなのである。我儘と言われてしまえば、反論の余地がないことだけは確かである。

そんな私が気楽に感じることのできる場所は、実は電車の中だったりするのだ。通勤時間帯などは隣の人の鼻息が聞こえそうなほどに密着という状態なのであるが、不思議と孤独を感じることができるのである。どれほど周囲を人に囲まれていようとも、誰からも邪魔されない、一人の時間を楽しむことができるのである。異論はあるかもしれないが、少なくとも私はそのように思うのだ。しかし考えてもみれば人間とは、なんと孤独な存在だろう。人々がひしめきあっていたとしても「ひとり」と感じることができるのだから。

ところで聖書にはこのようなことばがある。「神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』」(創世記2章18節)

これはアダムがエデンの園に一人で住んでいたときに神が言ったことばである。そこで神はどうしたかというと、もう一人の人間、エバという名の女性を彼に与えた。アダムにとって彼女は、エデンの園で寝食を共にする家族であり、園に住む動物の世話をし植物の面倒を見る同僚であり、園を創造し彼らと共に歩まれた神を礼拝する信仰の仲間でもあった。言うなれば、一人の人間にとって他人の存在を意味するすべての役割を彼女が担っていたと言っても過言ではあるまい。

しかしなぜ神は人がひとりでいることを好ましからざることと考えたのだろうか。もしかしたら、それは私がひとりになりたいと思う理由と似ているかもしれない。おそらく神は人がひとりになると自身の思うがままに振る舞い、他人を顧ることなく自分本位の道を歩んでしまうであろうことを見透していたのかもしれない。そのように自分にばかり目を向けてしまう人は、やがて神を忘れてしまうであろう。人がひとりになることの問題というのは、単なる情緒的、感傷的なものではなく、人が神から離れてしまうという霊的、信仰的なものかもしれない。