神の自己紹介

あまり専門的な話をするつもりはないが、先日インターネット上における固有の識別番号―住所や電話番号みたいなもの―をひとつ借りた。世界にひとつだけのものである、と言ってしまうと、何やら希少価値の高いもののように思われるが、早い者勝ちで誰でも欲しければ借りることができる。ちなみにこの番号は世界規模で管理されているので、個人が「所有」することはできない。だから「借用」することしかできない。ところでこの番号を持ってるだけでは何の役にも立たないので、付帯する設備一式もレンタルしたわけであるが、そう書いてしまうと、たいそう高価な借り物をしたように聞こえてしまうかもしれないが、ペットボトルのお茶にして数本分の代金である。ずいぶんと身近になったものだ。一体全体そんなものをどうするのかと言われてしまうかもしれないが、スマートフォンの台頭もあり、この識別番号が枯渇してしまう可能性があるということで、そうなってしまう前にひとつくらいキープしておこうと考えたのである。いずれ返却することになるか、さもなければ次世代の番号に変更されることになるかもしれないだろうが、せめてひとつくらいは持っていても損にはならないだろうと思ったまでだ。

ちなみにこの番号、通常は三桁の数値が四つ並んだものであるが、それでは分かりにくいので、名称を付与するのが通例である。たとえば教会のホームページを例にすると、”sakaeshalom.org”と名付けられている。そんなこんなで、必須ではないにしても将来的な利便性を考えて、私も何か名前を付けようと考えているわけだが、どうもピンとくるものが思い浮かばない。連休でこの原稿を書く時間があったにもかかわらず、その名前を考えることに無駄にアタマをフル回転させてしまったので、原稿の方は一向に進まなかったという具合だ。名は体を表わす、と言うから何かしら気の利いたものにしたいところだ。

ところで名は体を表わすということであれば、神の御名はどうであろうか。神の御名や神を表わす言葉というのは、聖書を見ると数多く登場していることがわかる。しかしながら旧約聖書に記録されているうちで、おそらく最も知られているのは、神がモーセに対して仰ったこのことばであろう。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出エジプト記3章14節)

これは、モーセの質問に対する神からの答えであり、そのモーセの質問とは、イスラエルの人々が神の名について彼に尋ねた場合、彼は人々にどのように答えたらよいのかということであった。そのように考えると、まさしくこれは神による自己紹介のようなものであろう。人々が神を表わすためにことばを選らんで決めたのではなく、神御自身が人々のためにことばを選んで、御自身の名を明らかにされたのである。神御自身が語ったことが、重要なことではないかと私は思うのだ。なぜなら神は御自身がどのようなお方であるかを、人々に明らかにされたということになるのではないか。これはモーセが理解した神とは何者であるかをモーセ自身の言葉で伝えたのではなく、神御自身が自らを自らのことばでもって、人々に説明したのである。そして神御自身のことばによると、その名は「わたしはある」ということだ。日本語で聞いても、ちょっと意味が分かりにくいかもしれないが、ついでまでに英語ではこうなる。”I AM THAT I AM”(King James訳)

日本語であれ英語であれ、いずれにせよ普段あまり使うような言い回しではない。それだけに独特の意味があるように感じられる。もっとも私がどう感じるかはどうでもよい。肝心なのは「わたしはある」、また英語を日本語に訳すのであれば「わたしはわたしである」という神の御名は、神がどのような方であることを表わしているのだろうか。

おそらく神は御自身だけで完結できるということなのではないだろうか。つまり他の誰にも依存することなく、他の誰を必要とすることもなく、神だけで存在し続けることができる。別の言い方をするのであれば、神はこの世界に存在するすべてのものを超えた存在ということになるだろう。何やら抽象的な言い方なので余計に混乱しそうである。ややこしい話を簡単に説明すると、神は完全無欠な存在であると言えるだろう。ところがそれがすべてというわけではない。もっと大切なことは、そのような神がモーセを通じて、イスラエルの人々と関わろうとしたことだ。そして同じ神は、今も私たちと関わろうとしていることであろう。