労なくして

しばらく前のことであるが、行きつけのガソリンスタンドでメール会員のキャンペーンをやっており、ガソリン5リットル無料クーポンなるものをもらってしまった。それをもらったときに、まず最初に頭に浮かんだことは「しめしめ、次に満タンにする時にはこれを使わせてもらおうじゃないか」ということであった。ちょうど燃料価格が上がっている時期だったので、5リットルがタダになるということは、1リットルあたり150円で計算すると、750円も節約できることになる。750円といえば、昼飯を外で食べるに十分である。そうやって考えてみると、なかなか得な話ではないか。というわけで、先日、意気揚々とガソリンを満タンにした後、レジでクーポン券を出したわけだが……

店員「申し訳ありません。このクーポンは給油をされる前に出して頂かないといけないんです。」

私「えっ?」

一瞬我が耳を疑ってしまった。店員にそのように言われて、改めてクーポンを見てみると、なるほど、給油前にレジに出せというようなことが確かに書いてあるではないか。まさか満タンにした後に、ガソリンを5リットル分返品するわけにもいかないし、その店員が失敗をしたわけでもないのだから、食って掛かるわけにもいかないし、そもそも気が小さい私であるから、理由はともかくとして5リットル無料のクーポンがあるのだからと、ごり押しするのもためらわれたし、そこをどうにか、と頼み込むつもりも毛頭なかった。何と言っても、750円程度で店員を相手にムキになるのも、みみっちいというか貧乏臭くてみっともない。いずれにせよクーポン券をもらって、有効期限しか確認しなかった私の落ち度であることに間違いはなかった。裏面に書かれていたのならまだしも、表にちゃんと書いてあるんだから、そこを見落とした私がいけない。しかしそれでも、くやしいことにかわりはない。支払う時には、皮肉っぽく「そりゃあ、残念。せっかくだったのに。じゃあ、これは使えないんだから、返すよ」と、店員にクーポンを返してきた。まぁ、往生際が悪いって言われしまえば、その通りなのかもしれないが。

しかし考えてみれば、世の中には一見しただけでは、こりゃ得な話じゃないか、と思えてしまうようなことが、多々あるのではないだろうか。往々にして人はそのような「うまい話」にのせられそうになるのではないか。例えば携帯電話の端末料金0円、と言う宣伝文句だけを見てしまうと、この機会を逃すのはもったいないと、ついつい手を出してしまいそうになる。実際、そんな宣伝に誘惑されて、iPhoneを買ってしまった私なのであるが。しかしタダより高いものはない、と言う言葉もあるように、こちらが何の労もせずに物品を手に入れることなどできるわけない。iPhoneそのものをタダで手に入れたにしても、私は結局二年間の契約を結ぶことになったし、ガソリン5リットル無料クーポンをしっかりと確認しなかったばかりに、いつも通りの額を支払わなければならなかったり、という具合だ。

しかし全てが全てそうであろうか。確かに多くのものはそうかもしれないが、中には例外があってもいいはずだ。私が思うに、神が私たちに与えて下さるものに関して言うのであれば、その例外に当てはまるだろう。神は私たちの行いに対しての報酬として、何かを与えられるということはなさらない。それはキリストのことばからも分かるだろう。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。……あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。……これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音5章31~33節)

神は私たちが何を必要としているかを知っており、それを惜しみなく与えて下さるのだ。私たちはそれを受け取るだけでよい。それを稼ぐ必要などないし、それを得るための条件があるわけでもない。そして神が私たちに与えるもののうちで、最も大切なもの、最も価値のあるものは、次の聖書の箇所のとおりであろう。「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(ヨハネの黙示録3章20節)