知恵を求める

昔、イスラエルにソロモンという名の王がいた。この人物については以前にも少しばかり見たことがあるし、クリスチャンでなくとも聖書を読んだことがなくとも、その名前くらいは聞いたことがあるだろうというほどに有名な人物である。彼がその名を広く知られている一番の理由は、おそらく彼の賢さ、知恵の深さにあるだろう。彼は知恵のある王として知られていた。聖書の中にもそれにまつわる逸話がいくつか残されている。例えば、二人の女が一人の子供をめぐって争った時に、どちらが本当の母親であるかを導き出したこともあれば、シェバ(エチオピア)の女王が彼の知恵を試そうとはるばるやってきて、彼の知恵はもちろんのこと、王としての威厳に度肝を抜かれてしまったとかであろうか。今回は、知者として知られたソロモン王が記したものについて見ていきたいと思う。

これは私の個人的な感想であるが、旧約聖書の箴言は、おそらく彼の著作の中でも代表たるものかもしれない。事実、箴言は「知恵文学」と分類されているわけだが、まさしくソロモンの知恵によって書かれたものと呼ぶに相応しいものであろう。

彼自身も箴言については冒頭部分にこのように書いている。「これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。」(箴言1章2~5節)

なぜ知恵を得る必要があるのか。知恵を得ることに何の利得があるのか。そのような疑問に対する答えをここに見出すことができよう。「悟りのことばを理解するため」「正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するため」「若い者に知識と思慮を得させるため」という具合だ。なるほど、つまり簡単に言ってしまうとこういうことだろうかと、私なりに考えてみた。知恵を深めれば、物事に対する理解が深まり、何が正しいことであるかを知り、またそれに従って行動するだけの分別を持つことができ、また未熟な者がいれば、指導することもできるということだろうか。たしかにそう考えると、知恵を深めるのは、良いこと尽くしの感がある。しかしながらどれだけもっともらしい言葉を並べたとしても、果たしてソロモンが言うように賢くなれるであろうか、知恵を持つことができるかというと、ちょっと怪しい。はっきり言って、私にはそんなに知恵のある人間になれるだけの自信がない。あまりにも敷居が高すぎ、端から諦めてしまいたくもなるし、どうせ自分には無理なんだからと、賢くなろうなどという気持ちが萎えてさえしまいそうだ。知恵を諦めたところで、得ることはなくとも、何かを失うということもないだろうから、やはり今のままでいいか……などと、どちらかと言えば、退廃的な気分にもなってしまう。

しかし知恵を得るということには、単純に「賢くなる」とか「立派な人になる」というだけの意味があるわけではないようだ。ソロモンはこう言っている。「主を恐れることは知識の初めである。」(同7節)

そうしてみると、知識や知恵といったものの基本にあるのは、神を恐れるということなのではないかと気が付く。自分には知恵がないし、賢くなることに期待が持てないと思うことがあったとしても、卑下したり悔やんだりする必要はないのだ。神を恐れてさえいれば、それが知恵の土台となるのだろう。であれば、さほど難しいことのようには思えてこないから不思議なものである。おそらく神を恐れることに「難しさ」というものがないからだろう。人知を超越する存在である神に畏怖の念を抱かずにいることの方が、よほど困難なことのように思えてしまう。それでは、神を恐れないことはどうなるのか。ソロモンはこう書いている。「わたし(=知恵)を呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。」(同28~30節)

困難な状況に直面し、問題を解決するための知恵が欲しいと思った時に、それを見出すことができなくなってしまうのだ。神を恐れ、知恵に親しむことが「安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らか」(同33節)に過ごすための知恵なのかもしれない。