求めるものはひとつ

これはあくまでも私個人の考えであるが、ソロモンの父であったダビデは、詩篇に多くの賛美を残したこともあって、祈りの人、もしくは賛美の人と呼ぶことができるだろう。そしてソロモン自身については、やはり箴言を残したこともあって、知恵の人と呼ぶに相応しいであろう。このように考えてみると、二人は親子でありながらも、その生活環境の違いからなのか、それとも互いの性格の違いからなのか、王であったということと、神に対する信仰心があったということを除いては、あまり似ているところはなかったという印象を受けてしまう。どちらが良いとか悪いとかいうのではなく、ただ同じ神を信じ、似たような立場にあったとしても、人はそれぞれ違うということなのであろうか。

さてソロモンは自らが語っている言葉について何と言っているだろうか。「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。」(箴言3章1~2節)

つまり知恵の言葉をしっかりと心に刻んでおくようにということであろう。右の耳から入って、左の耳から出てしまうようではいけないのである。知恵というのは人のうちに留まってこそ、その人を正しい道に歩ませることになるのだろうが、どうやらそれだけではないようだ。知恵はそれを聞いて憶えておく人を生かすこともあるようだ。このソロモンの言葉を字面通りに受け取るのであれば、知恵を得ることは、その人の健康を保ち、長生きをさせるということになるだろう。両者にどのような関係があるのか、具体的に筋道立てて説明することは私にはできないが、感覚としては納得できそうなものである。考えてもみれば、何となく想像できよう。人が愚かであれば、身の程もわきまえずに、無謀な行動にでてしまい、我が身に災いを招くことになりかねないだろう。などと言ってしまうと、どうも大げさに聞こえてしまうが、私自身の経験から言わせてもらえば、自分の胃袋の大きさを考えずに、あれこれ食べ過ぎてしまった時の後ろめたさと、気持ち悪さを思い出してみれば、妙に説得力があるように思われる。もっとも私に限ってのことかもしれないが。

なるほど、賢くなるという以外にも、健康のためにも、知恵があるのは良いことであるようだ。しかしその知恵が本来は何のためのものなのかを忘れてはなるまい。知恵というのは、そもそも神を恐れることを知るためのものであり、正しい道を歩むためのものであり、若い者に正しいことを教えるためのものである。それは自分のために便宜を図るために利用するものでもなければ、人を貶めたるために使うのでもないし、当然のことであるが神のようになるためでも、神を超えるためのものでもない。であるからこそ、知恵があるからと、思い上がってはならないのである。しかし人は弱いもので、自分がほんのわずかでも人よりも賢いと感じてしまうと、ついつい知ったようなことを言ってしまったり、やってしまったりしそうになるのだ。あたかも自分が何やら人より優れた者であるかのように感じてしまうのである。そのような考えや行いを戒めるかのように、このようなソロモンの言葉もあるが、これもまた一つの知恵なのであろう。「自分の悟りにたよるな。……自分を知恵のある者と思うな。」(同5、7節)

しかしながらそのような誘惑に遭遇したとき、人はどうすればいいのだろうか。自制心を保つためにはどうすればいいのだろうか。自分でどうにかすることができるのだろうか。いや、自分に頼ってしまっては、それまで以上に自分自身に目が向いてしまうだけであろう。誘惑に勝ったとしても、今度はそれがさらなる自負になってしまうかもしれない。ソロモンの言葉に従うのであれば「心を尽くして主に拠り頼め。……主を恐れて、悪から離れよ。」(同)ということである。人が頼るべきは、自分の力ではなく神であり、人が恐れるべきも、やはり神なのである。そして神を認めて、神に従うのであれば「主はあなたの道をまっすぐにされる」(同6節)と言うではないか。そして神を恐れることは「銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさる」(同14節)とも言うのだ。

ダビデは祈りと賛美で神を求めた。ソロモンは知恵で神を求めた。どうやら神を求めるにも、その方法は色々とあるようだ。しかし求めるものはただ一つ、神なのである。神を知ることは、いかなる富や誉れよりも勝っているだけでなく、それは人に平安といのちを与えるのである。