知恵の初めに

クリスチャンとは言え人間であるからには、ついつい口にしてしまったり、考えたりしてしまうことに、このようなものがあるのではないだろうか。「忙しすぎて、聖書を読む暇がない」とか「祈っている時間がない」とか……。それとも、そのようなことを思ってしまうのは、私だけだろうか。しかし最近、自分の身を振り返って気付いたことがある。実は、これはただの言い訳でしかないということだ。冷静になって振り返ってみれば、いくら忙しくても、聖書を読む時間がないわけではないのが事実である。むしろ一昔前と比べてみたら、聖書を読む手段は増えているわけで、それこそ片手で持つことのできるサイズに収めることもできるのだから、通勤の電車の中でも読もうと思えば読めるのである。祈りについても同様である。いや、祈りこそ何も必要なものはないはずだから、それこそ思いたった時に、思いたった場所で祈ることができるはずだ。必ず目を閉じなければいけないというわけでもないし、手を組み合わせなければいけないというわけでもない。それこそ電車の吊革に掴まって、外を眺めながらでも祈ることはできるのだ。

でもそれを実行に移さない、移せないのは、なぜだろうか。本当に忙しくて、時間も余裕もないからだろうか。祈りと賛美の人であったダビデは、多くの賛美と祈りの詩を後の時代に残している。これは詩篇を読んでみれば分かることで、疑いの余地はない。「ダビデにはきっとそうするだけの時間と余裕があったんだろう」と言いたくなってしまうが、実際はそんなに甘いものではなかっただろう。彼は王になる前からも、そして王になった後も、様々な問題の渦中にある人物だった。むしろ私が「忙しい」と言う以上に忙しい人物だったことだろう。時間がなければ祈れない、神のことばを読めない、というのが本当のことならば、おそらく彼の名が聖書に残ることはなかったはずだ。

ところがダビデの名も、彼の記したものも聖書に残されている。つまり時間や忙しさは関係ないのだ。それどころか多くの問題を抱え込んで余裕がなかったからこそ、神に助けを求めることができたのだろう。彼の心が絶えず神に向いていたからこそ、為し得たことなのだろう。さてそのようなダビデではあったが、息子であるソロモンにこのように教えたという。「知恵を得よ。悟りを得よ。」(箴言4章5節)「知恵を捨てるな。」(同6節)「知恵の初めに、知恵を得よ。」(同7節)

これも私の想像の範疇を範囲を出ないのだが、ダビデも知恵を持つことの大切さを知っていたのかもしれない。しかし残念なことに彼をとりまく状況が状況であっただけに、それを追求するだけの余裕がなく、息子が平和な時代に穏やかに生きることを期待して、知恵を得ることの意味を教えたのかもしれない。ところでこのダビデが息子ソロモンに与えた言葉を見ると、ちょっと禅問答のように思われるふしがある。「知恵の初めに、知恵を得よ。」(同7節)と言っているのだが、これは一体どういうことだろうか。知恵を求めているのに、まず知恵を得よと言われてしまうと、目指す終着地点が出発地点のよう思えてしまい、まるで堂々巡りのようにいつまでたっても目的地に到達しないのではないか。

しかしもう一度改めて考えてみると、知恵というのはどのようなものだろうか。知恵というのは、神を恐れるということではなかったか。つまり神に対する恐れさえあれば、それがきっかけとなって、さらなる知恵を得ることになるということかもしれない。さて、それでは、どのようにしてきっかけとなるべき「神に対する恐れ」を得ることができるのだろうか。それには神を知ることが一番の確かな道であろう。神を知らなければ、神に対する恐れというのも湧いてこない。神を知るにはどうするかということになるが、確かなことは言えないが、それには様々な方法があるだろう。日々過ごしていくなかで、はっきりとではなく漠然と人間の理解と能力を超えた存在を感じることがあるかもしれない。しかしもっと明確に神を知るには、やはり聖書を読むのが確実であろう。それは神によって知恵を与えられた人間が神のことを記すために書かれたものだからだ。

「忙しすぎて……」「時間がなくて……」などと、適当に言い繕って聖書を読む機会を失っているのであれば、賢くなる機会を同時に失っていることになるのだろう。実に、惜しいことだ。