明かされる知恵

知恵を求めよ、そのようにソロモンは幾度となく言っている。しかし求めるべき知恵はどこにあるのか。どこをさがせば良いのか。はたしてそれはどこか人目につかぬところに隠されているのだろうか、それとも誰でも容易に見つけることができる所にそっと置かれているのだろうか。もし隠されているのであれば、それを見出すのは困難なことであろう。まずは隠された知恵を探し出すための知恵が必要になるではないか。だとすれば、知恵はごく一部の、それこそ選ばれた人たちだけのものになってしまうだろう。しかしソロモンが今まで書いてきたことを振り返って見ると、知恵はそのような性質のものではないように思われる。ではそれは誰にでも見える所にあるのだろうか。

ところで知恵はどこかに置かれているわけではない。それどころか自ら声を上げてその存在を世に示しているのである。「知恵は呼ばわらないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。これは丘の頂、道のかたわら、通り道の四つかどに立ち、門のかたわら、町の入口、正門の入口で大声で呼ばわって言う。」(箴言8章1~3節)

とは言っても、そのような声が人々の耳に入るようなものではないというのもまた事実であろう。冷静になって考えてみれば、知恵が呼ばわるとか、英知が声をあげるとか、そんなわけがないのは承知している。であれば、これを単なる比喩的な表現としてとらえることもできるだろう。しかし私の個人的な考えになるが、ここでソロモンが書いている知恵とは人格を持った存在としてとらえることもできるのではないだろうか。何やら不可解なことを言っていると、我ながら思ってしまうのであるが、平たく言ってしまうと、知恵というのは誰かをたとえて言っているのかもしれない。もちろんあくまでも私の考えでしかないので、当然のことながらソロモンはまったく別のことを意図してこの箇所を書いたのかもしれない。

しかしながら、私もまったくの思いつきでそのようなことを言っているわけではない。箴言8章22節から31節までを読んで、そう思うに至ったのである。とくにその中でも最後の二節には、このように書かれている。「わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」

はて、どこかで読んだことがあるような内容ではないか、というのが私の印象であった。おそらく私だけでなく、他にもそう思った人はいるかもしれない。そして私も含めて多くの人はこのヨハネの福音のこの箇所を思い出したのではないだろうか。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネの福音1章1~3節)

これはイエス・キリストについて書かれている箇所であるということを念頭において、ソロモンが書いている「これ(大空、海、地)を組み立てる者」という箇所を読み直してみると、ソロモンはキリストのことについて書いているのではないかと錯覚してしまうだろう。もちろんキリストがこの世に誕生するよりもはるか以前に、ソロモンが意図的にキリストのことを書いたかどうかは分からない。神によって示されたのかもしれないし、単なる偶然かもしれない。しかし確かなことは、知恵とキリストはその人格や性格において同一であるということだろう。

つまり知恵を知るということはキリストを知るということであり、そして知恵を求めることはキリストを求めることにもなるのだろう。しかし知恵を求めると言っても、知恵というのは実体があるわけでもなく概念的なものでしかない。だから容易には見いだせないだろう。ところがキリストを見出すのはそれほど難しいものではないだろう。なぜならキリストがどのようなお方であり、何を行ったのかは、すべて聖書に書かれているからだ。知恵を求めても見つけることができない、そのように感じることがあれば、まずはキリストに目を向けてみるのもいいだろう。キリストは隠されてはおらず、誰もが知ろうと願うのであれば、誰でも知ることができるのである。知恵が何と語ったかは、聖書に書かれていないが、キリストが語ったことばは聖書に記録されているではないか。