神を示す知恵

前回、知恵とキリストはその性質において似ているようであると見たのだが、そのような視点から考えてみると、知恵に対する考え方や見る目が、今までとは少しばかり違ってくるのではないだろうか。そうなるとソロモンが語っている内容についても、さほど難しく考えることもなく、知恵の言葉に対してリラックスして耳を傾けることができそうな気がする。これまでは知恵というものが、抽象的なものでしかなかったのだが、今ではより具体的な存在としても見ることができるようになったからであろう。とはいっても、知恵がすなわちキリストというわけでもないだろう。知恵にも色々とあって、悪知恵というのもあれば、猿知恵というのもある。これらはその性質から考えても、キリストとは相容れないものである。ということであれば、キリストの持つ特徴のひとつてして知恵があるということになるだろう。そもそも知恵はあくまでも知恵であり、キリストは実体を伴った存在であるから、まったく同じであるとは言えないだろう。そうしてみると、ソロモンが今まで幾度となく語ってきた「知恵」というのは「キリストの知恵」もしくは「神の知恵」と言うこともできるのではないだろうか。

さて、あまり難しく考えてしまうと自分でも何を言っているのか、何を言いたいのかが分からなくなってしまうので、キリストと知恵の関係について見ていくのはこれくらいにしておこうと思う。私が言いたかったことは、箴言を読むときに「知恵」が主語として書かれている箇所を見つけたら、そこを「キリスト」と置き換えて読んでみると、よく分からんと思っていた箇所が、案外すんなりと意味を汲み取れるようになるということだ。

そして、まさしくそれに当てはまるかもしれないのがこの箇所であろう。「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい。」(箴言9章4節)「わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい。」(同5~6節)

これを読むと分かることは、知恵とは「わきまえのない者(別の訳では、あさはかな者、思慮のない者とも書いてある)」に与えられるものであるということであり、またその呼びかけに答える者には、等しく与えられるということだ。確かに賢い者は知恵を必要としないであろうし、知恵の呼び掛けを無視する者は、知恵を得る機会を自ら放棄していることになるだろうが……。

さてその一方で、知恵を得るために努力しろ、などというようなことをソロモンは書いてない。普通に考えるのであれば、賢くなるためにも日々努力を重ねなければと考えるものであろう。思い返してみれば、私も子供の頃には、親から勉強するように言われていたものだ。歴史は繰り返す、ではないが、今は私が自分の子供に同じ台詞を言っているのである。しかしながら「愚かな者は来なさい」ということは、知恵を望んだとしても、自力で努力しても得られないということだろうか。もしそうであるとしたら、勉学に励む者の妨げになってしまうことだろう。しかし実際は別の話であろう。努力して得られるのは知識である。知識は人を賢くするが、知恵はそれだけでなく人に善悪を判断する能力を与えるのだ。両者は似て異なるといえよう。両方を兼ね備えることができれば何も言うことはないのだが、残念なことに世の中には頭は良いけれども、善悪の区別のつかぬ者の多いのではないだろうか。

ところで、果たして努力しても知恵は得られないのだろうかというと、すべてがすべてそうではないだろう。しかしいかなる賢人といえども人に伝えることができるのは、人としての知恵であって神の知恵ではないということだ。確かに人は努力をすればそれだけ賢くなることができるだろう。物事に対する理解を深めることによって、新たなことを数多く見出すこともできるだろう。財産を築くこともできるだろう。人々を意のままに動かすだけの権力を得られるかもしれない。それを繰り返すことで、今に至るまで人類は発展を遂げてきたのだ。しかしそれでも神の知恵には遠く及ばない。神の知恵を得たからといって、必ずしも人は頭が良くなるわけでもなければ、懐が豊かになるわけでもないし、優れたリーダーになれるというわけでもない。だが確かなことは、神を知ることができるようになることだ。神御自身が示すのでなければ、一体何者が神を示すことができようか。「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(同10節)