しゃべり過ぎないこと

「沈黙は金なり」という19世紀イギリスの思想家の言葉があるかと思えば、「口は災いの元」ということわざもある。どうやら人の口から発せられる言葉というものは、洋の東西に関係なく昔から、影響力の大きいものとみなされているようだ。人を生かすも殺すも言葉次第、というところか。平易な言葉で言い換えるのならば、無駄口を叩くなということであろう。それは人を不快にすることもあれば、自分自身に仇をなすこともあるのだろうし、浅薄なおしゃべりというのは、発言をしている者自身の品位を下げることにもなるだろう。

最近ではインターネットで自らの「つぶやき」を公開できるツイッターなるサービスも登場し、ますます「無駄口」を叩き易くなっていると言えるかもしれない。一般企業とか団体が宣伝目的の媒体として利用したり、報道機関や公的機関が情報伝達の手段として用いるのであれば、その利用価値というのは高いと言えるだろう。しかし一般人が思っていることを公にしても、果たしてそれに価値を見出すことができるだろうか。以前、通勤の電車の中でツイッターでつぶやいている若い女性を見かけたが、その内容はこのようなものだった。「電車が混んでる。超嫌だ。」なんというか、その内容の無さに衝撃を受けてしまったので、今でも印象に残っているほどである。

もっともそう難しく考えずに、ただの「つぶやき」なのだから、内容なんてものはそもそも必要ないじゃん、と言われてしまえば、あえて反論することもできないのであるが。しかし単なる個人の思ったこと、感じたことのつぶやきであれば無害とも言えようが、あることないこと、思いついたことを何でもかんでもつぶやいてしまうと、とんでもない混乱を招くことにもなるだろう。それもあってか一部ではツイッターのことを「デマッター」とか「バカ発見器」とか揶揄されて呼ばれているのも事実である。

どんなことでも好き勝手に発言できるばかりか、それらを世界中に向けて発信することのできる今の時代を考えると、ソロモンのこの言葉が重く聞こえてくる。「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある。正しい者の舌はえり抜きの銀。悪者の心は価値がない。正しい者のくちびるは多くの人を養い、愚か者は思慮がないために死ぬ。」(箴言10章19~21節)

ソロモンの言葉を借りるのであれば、口数が多いことは罪につながるという。口数が多いということは、平たく言うと、おしゃべりということになるだろうか。もちろん日常の会話という範囲内であれば問題はないだろう。元来が無口の私にしてみれば、必要最低限の会話さえあれば十分であると感じるのであるが、さすがに世の中で見てみれば、私のような人間は少数派のようだから、ある程度の「おしゃべり」は問題ないであろう。しかし度を越した会話は、人の貴重な時間を無駄に費やすことにもなる。自分の時間だけなら、困るのは自分だけだから、自己責任ということで片付けることもできるだろうが、人に時間を費やさせてしまうことは、その人から時間を盗むことにもなるのだ。そのような人の心は空しいものであり、やがては災いを我が身に招くことになるという。

しかしその一方で、自分自身の口を制する者は知恵があるとも言っている。もちろんこれは無駄口を叩いて自らの愚かさを宣伝しないように、ということだけが目的ではないだろう。思慮深い人の舌は精錬された銀のように価値のあるものとされ、知恵のある人の言葉は多くの人々の心を育て、感情や精神を強めることになるという。

このように比べてみると、どちらが好ましいのかは明白であろう。いつでもどこでも自分の思っていること、考えていることを発言できるようになったのであれば、なおのこと自分の言わんとしていることを振り返り、発言することで果たして他人や自分自身にとってプラスとなるのかマイナスになるのかを今一度考えてみるべきなのかもしれない。人はその発言に責任を持たなければならないのだから。

もうひとつ大事なことがある。常に口を開いてしゃべっていると、神が語ろうとしている時に、神の声を聞き逃してしまうのではないだろうか。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46篇10節【口語訳】)