言葉の実

ここ最近、暑い日ばかりが続いている。八月だし、夏なのだから、当然と言えば当然のことなのだろう。そんな当然のことに文句を言っても仕方のないことなのは、重々承知しているのだが、恨み言のひとつやふたつくらい言いたくもなる。とくに私は暑がりで汗っかきなのだから、そのような気持ちは人一倍である。そんなことだから、私が口を開けば、暑い、うっとうしい、などといった不平不満ばかりが出てしまう。どうにも暑くなると心穏やかに過ごせなくなってしまうようだ。まったく毎年のことであるが、暑さをしのぐにはどのように過ごしたら良いのだろうかと考えてしまうのだ。もちろん避暑地に行くとか、エアコンを買うとかいう選択肢は除くとしてだ。まぁ、これも毎年のことだけど、そうやって考えて過ごすうちに暑い季節は過ぎてすまうのであるが。ふむ、そうやって考えてみると、じっと耐えるしかないのかもしれない。箴言に暑さを乗り切る知恵なんて書かれていないものだろうか……などと考えるのは間違っているのだろう。

さてソロモンが住んでいたところの夏はどんなだったのだろうか。さすがに当時の天気の記録などは残されていないと思うのだが、参考までに現代のエルサレムの八月の平均最高気温は29度らしい。連日のように30度を越えてしまう横浜と比べてみると、わずかばかり過ごしやすそうであるが、それでも暑いことには変わりなさそうだ。それでもソロモンは心を穏やかに保つことができ、知恵を追求することができたのだから、そのようにして平安にいられる心構えは見習いたいものである。さて、暑さとはまったく関係ないことであるが、常に知恵を求めていたソロモンの残した言葉にこのようなものがある。「人はその口の実によって良いものに満ち足りる。」(箴言12章14節)

それではソロモンが書いている、口の実とは何であろうか。まさか人の口から果実が転がり出てくるわけはないだろう。まじめに考えると、人の口から出てくるものとは、すなわち人が話す言葉を示すのだろう。人はその言葉によって、良いものを得ることができるという。それもただ手にするのではなく、満ち足りるほどに得ることができるというではないか。しかしながら、良いものが何であるかについては、ソロモンは詳しく述べていない。少しばかり想像というか推量に頼ってしまうことになるが、「善人は主から恵みをいただき」(同1節)という箇所があれば、「自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り」(同11節)という箇所もあるので、それらのことから考えてみると、神から存分に祝福され、また日々の生活に充足することにもなる、ということかもしれない。ひとくちで良いものと言っても、価値観が千差万別であることを考えると、さすがに何でもありというわけにもいかないだろう。基本的なものは変わらないだろうとも思うし、何が良くて何が良くないかは最終的には神が決めることであろうから、私の想像も当たらずとも遠からずであろう。

ちょっと前には、口数が多いことの害悪について見たが、同じようにして口から出るものが、その人自身を富ませることにもなるのだ。果たしてどこからそのような違いが出てきてしまうのだろうか。改めて考えてみるに「口の実」と言うからには、それは何らかの実を結ぶような言葉である必要があるだろう。それは単なる音であるだけでは十分ではないし、ましてや雑音であってはならない。では果たしてどのような言葉が口から出るべきなのだろうか。ソロモンはこのようにも書いている。「真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。」(同19節)

真実を語ること、これが実を結ぶ言葉につながるのだろう。その実は人を豊かにするだけでなく、自分自身も豊かにするのだ。普通に生活をしていれば、人を騙して富を得ようなどと考えることはまずないだろうが、自らの身を守るため、真実を隠したことは、誰でも一度ならず二度や三度、いや、もしかしたらそれ以上に、身に覚えがあるだろう。私などは数え切れないほどだ。正直者が馬鹿を見ると世間では言うが、正直は一生の宝とも言うではないか。神の目から見れば、真実を語る口は揺るがされることもなく、祝福を呼び寄せるのである。人から叱責されることを恐れたり、人の見る目が変わることを心配したりするばかりでは、何も実を結ばないのである。人の前に、そして神の前に正直であることが、最後には人からも神からも認められ、信頼されることになるのだろう。