願うはいのちの木

世間の人並みに、私も五億円の夢を三千円に託した訳だが、そんなものに期待をするのがそもそもの間違えだったのかもしれない……なんてことは誰に言われなくとも、ちゃんと分かっちゃいるんだけれども、やはり期待せずにはいられない自分がいるわけで、宝くじを買ってしまったのだ。んで、五億円の夢が現実になったかどうかというと、わずか三百円だけを残して二千七百円が露と消えてしまったわけである。いつもながらに思うのだ、こんなことになるんだったら最初っからもっとマシなことに三千円を使えばよかったと。しかし期待せずにはいられないのである。ところで知恵者ソロモンは箴言にこのような興味深い言葉を書き残している。「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」(箴言13章12節)

さて、期待が長引くと心は病む、とはどのようなことだろうか。ちょっと言わんとしていることが掴みにくい。参考までに、共同訳では「待ち続けるだけでは心が病む」と書かれており、口語訳では「望みを得ることが長びくときは、心を悩ます」と書かれている。望んでいることを待ち続ける、つまり願っていることがなかなか実現しない、待てど暮らせど、自分の期待している通りにならない、そうなると人は思い悩み、気に病んでしまうということだろうか。期待するのは悪いことではないだろうし、待ち続けることも必ずしも間違ってはいないだろう。しかしあまりに期待することが長引いてしまうと、それは人に負担となってしまうということだろう。

そう言われてみると、はかなくもわずか数日で夢が崩れた私は残念ではあっても、考えようによっては幸運なのかもしれない。考えてもみよ、もし宝くじの抽選日が決まってもおらず、また抽選を行うかどうかも実は決まっていなかった、などということであれば、いつまでも、もやもやとした気分で、いつになったら五億円が当たるかなどと気になってしかたがないだろう。寝ても覚めても、そのことが頭や気持ちのどこかにあって、仕事をしていても集中できないだろうし、遊んでいても楽しめることはないだろうし、場合によっては夢でもうなされてしまうかもしれない。そのような状況を楽しめるという人は別であろうが、並の感性の持ち主であれば、魚の小骨が喉の奥に引っ掛かっているような気持ちになるだろう。そのように考えてみると、ソロモンの言っていることにも納得できよう。

ではその反対に、望みが叶うことはどのような結果をもたらすのであろうか。それは「いのちの木である」と書かれている。前の流れに従って他の訳を見てみると、共同訳には「かなえられた望みは命の木」とあり、口語訳には「願いがかなうときは、命の木を得たようだ」とある。いやはや、なんとも抽象的で、分かりにくいような。

それはそうと、聖書を最初から読んだことがあれば、いのちの木とは、どこかで聞いたことがあるはずだ。「神である主は、東の方エデンに園を設け、……園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。」(創世記2章8~9節)その通り、創世記の最初の方に出てくるではないか。人はいのちの木の実を食べることで永遠のいのちを得ることができたのが、神に背いてしまったゆえに、エデンから追放され、いのちの木からも遠ざけられ、結果として人は死ぬことが定めになってしまったという、あのいのちの木である。もしソロモンの言っているいのちの木が、エデンの園にあったものと同じいのちの木であれば、願いがかなうということは、いのちの木を発見したかのような喜びを得られるということか。そしてもし人がいのちの木を見つけることができれば、その実を食べ永遠のいのちを得ることも可能であろう。人にとって願いがかなうということは、それだけの価値があるということなのかもしれない。

ところが人の願いとか望みというものは、得てして実現しないものである。また思い通りになったと感じる時があるかもしれないが、後になってから、何かが違うとか、何かが足りないとか考えてしまうものだ。それは人が確実ではないことに願いを託すからであろう。願いをかなえたいのであれば、確かなものに期待を寄せるべきではないか。そして確かなものとは、天地万物を創造された神をおいて他にあるだろうか。確かな神に期待をすれば、いのちの木を見つけるに値するほどの喜びだけでなく、永遠のいのちを得ることも、ただの夢ではなく現実となるのだ。