まっすぐに見える道

若い時の苦労は買ってでもせよ、という言葉がある。誰しもどこかで聞かされたことがあるだろう。若い時分に困難な体験をしておけば、その経験が将来役に立つときがくるであろうから、自ら求めてでも苦労をした方がよいということである。ところで「若い時」というのは、どれくらいの年齢を示しているのだろうかと、どうでもいいことなのかもしれないけど、ちょっと気になってしまう。後ひと月もしないうちに四十を迎える私は、果たして「若い」の部類に入るのだろうか。まぁ、私自身の気持ちとしては、まだまだ若いと思っているのである。ということは、やはり私も買ってでも苦労をしなければいけないのだろうか。いやぁー、それは正直なところキツイ。というよりも、わざわざ買うまでもなく、十分苦労しているような気がするのだが。

そんなことを考えてしまうと、本当のところは余計な苦労などせずに、安易な道を進みたいと思ってしまうのである。しかし安易な道が良いのかどうかは、疑問である。ソロモンはこのように言っているではないか。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14章12節)

どうやらソロモンの言葉に従うのであれば、人にとってまっすぐに見える道というのは、あまり好ましいものではないらしい。好ましくないどころか、それは人にとって害となり、結果として人の命を奪い取ってしまうほどのものらしい。ところで人にとってまっすぐに見える道というのは、どのような道なのであろうか。確かに安易な道は、人の目にはまっすぐに見えるかもしれない。もしそうだとすると、字面の通りに考えるのであれば、いかに楽をしようかと考えて行動することは、その人を死に至らしめるという、やや極端な話になってしまうだろう。ソロモンの言葉の真意を、私が完全に理解できるとは思わないが、もう少し別の意味があるのではないかとも私は思うのだ。そこでもう少し読み進めていくと、ソロモンのこのような言葉を見つけることができる。「心の堕落している者は自分の道に甘んじる。わきまえのない者は何でも言われたことを信じ……」(同14~15節)

人の目にまっすぐに映る道というのは、自分自身の道のことであろう。自分自身の道と言っても、人がそれまでに歩んできた道のことではない。後悔先に立たずと言うくらいだから、過ぎ去ったことについては人はどうすることもできない。ここでソロモンが言わんとしていることは、人のこれからの歩みについてであろう。もし人の心が捻じ曲がり、その考えることが卑しくなってしまうのであれば、それはそれで由々しき事態である。しかしさらに悪いことは、そのような卑しい思いで行動するとき、その行いは欲望の赴くままの品性を欠いたものとなり、周囲を省みることのない自分勝手なものとなるだろう。他人から見たら、いかに歪んだ道に見えたとしても、当の本人からして見れば、それはまっすぐな道に見えるのだろう。これが人にとってまっすぐに見える道なのかもしれない。

またわきまえのない者は何でも信じてしまうと、ソロモンは戒めている。わきまえがない、つまり思慮が欠けていることの問題は何であろうか。物事について慎重にならず、注意深く考えることのない者は、正しいことと間違ったことの区別を付けることができずに、人から言われたことを鵜呑みにしてしまう傾向にあるのだろう。自分で考えずに、他人の考えに流されるだけでは、やはりその道も自ら労せずに進むことのできる、人にとっては楽な道となるのだろう。

どうやら人にとってまっすぐに見える道というのは、神の目から見て必ずしも正しいというわけではないようだ。それは人の欲望の現れであるかもしれないし、無知を証明しているだけかもしれないからだ。人がその道を進み続けるのであれば、人は神から遠く離れることになってしまい、やがては永遠のいのちを逃してしまうことになるのだろう。

しかし人が神の目にまっすぐに映る道を進むのであれば、人はいのちを得ることができるのである。ではどうしたら、そのような神の道を歩くことができるのだろうか。その答えは、ソロモンのこの言葉にあるのではないだろうか。「力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。」(同26~27節)