人の計画

最近テレビをつけると、地震対策だの津波対策だのと言った防災関係の話題をよく目にする。なぜだろうかと、考えてみれば9月1日は防災の日ではないか。いけない、いけない、すっかり忘れていた。昨年の震災から一年半が経過したと言っても、まだ多くの人々の記憶には新鮮なのだろう。なんてことを考えながらこれを書いていたら、今度はフィリピン沖で地震が起こったということで、沖縄から東北の沿岸地域に津波注意報が発令されたらしい……と思いきや、つい先ほどそれも解除されたということだ。何とも人騒がせな、ではなくて、備えあれば憂いなしとでも言ったところか。まさしくソロモンのこの言葉の通りなのかもしれない。「人は心に計画を持つ。」(箴言16章1節)

防災への意識の高まりからしても明らかなように、人は何かしら将来のことを考えるものである。むしろ先のことを考えない方が、無計画であると非難されてしまうのが常である。もちろんソロモンは計画的になることが良いとか悪いとかを言っているわけではないだろう。すべからく人というのは、そのようなものであるということだ。しかし人がどれほど計画を立てたとしても、果たしてそれが実現するかどうかというと、そればかりは分からない。計画の通りに運ぶこともあるだろうし、まったく予想外の結果になることもあるだろう。人はあれこれと予想することはできるだろうが、それを実現させる力はないのだ。実現させる努力をすることはできるだろうが、必ずしもその通りになるという保証はない。

人には将来の物事を決定することはできないというのが現実である。人は百年先のことはおろか、一日先、いやそれどころか一時間先のことさえも確実に知ることはできない。こうなるかもしれないとか、ああなるかもしれないというような、想像を巡らせるのがせいぜいだろう。さてソロモンはこのように続けて言っている。「主はその舌に答えを下さる。」(同)

人の思いや考えというのは、その人の心や頭から生まれてくるものである。しかし神は人の口に答えを与えて下さるという。どうにも抽象的でどのような意味があるのか戸惑ってしまいそうであるが、おそらくこのようなことかもしれない、すなわち神が人の口に与えた言葉は確かな答えになるという。人が自分の考えたことを口にするのであれば、それはどうにも心許ないものであるが、人が神によって与えられたことを話すのであれば、それは確かなものであり、信頼するに値するものであろう。なんと言っても神は、すべての人の髪の毛の数さえも知っており、この世界の始まる前から存在し、この世の終わりの後まで見通されているのだから、明日のことはもちろん、百年、千年、万年も先のことを知っているのだから。

ところで人は様々な思いを持ち、あれこれと先々のことを考え、それらに従って行動するものであり、自らの行動は正しいと思うものである。もとより自分のしていることが間違っていると気付いているのであれば、普通の神経の持ち主であればそれを改めることだろう。しかしどれほど自らの行いを見直し、正しい方向へと進もうと努力しても、いかに自分が正しいと思っても、人の考えることが不確かであれば、その行いもどこか頼りないものになることだろう。であるから、人の価値というのは、その行いから計ることはできないのである。人の真価というのは、その人の心の奥底まで知ることのできる神のみが、計ることができるのだ。ソロモンもこう書いている。「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。」(同2節)

しかし人の考えることが頼りないものであり、その行いが自分で思っているほどに正しいのかどうか分からないのであれば、人はどうしたらよいのだろうか。立てる計画がそもそも不確かなものであり、将来どうなるのか確実なことは分かないのであれば、人は何に頼ればいいのだろうか。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(同3節)

知恵者であるソロモンでさえ自らを頼ろうとはしなかった。自らのうちに将来への思いがあるならば、それを神にゆだねることが最善なのだ。確かな答えを与えて下さる神が、その計画を確かなものとして下さるのだ。人の計画というのは、神の助けがあってこそ実現するのである。