義なる神、友なるイエス

何が正義であるのか、何が悪であるのか、それを見分けるのは人にとっては難しいことであろうと思う。いや、難しいということはないかもしれない。それどころか、ひょっとしたら簡単なことかもしれない。昨今の世の中の様々な出来事を見ていると、そう思わされてしまうことが多い。その理由を挙げるのであれば、人はそれぞれ自分自身の設けた基準によって他者のことを見て、勝手な評価を下していることがあるのではないだろうか。私自身もそのようにして周りの世界を見ていることを否定しようとは思わない。そのようなものの見方を改めた方がよいのだろうけど、正直いかんともしがたい。さて先ほど昨今と書いては見たものの、このことは必ずしも最近の傾向ではないだろう。むしろ人の歴史とはその繰り返しなのかもしれない。簡単だから正しいというものでもあるまい。人にとって困難なのは、何が本当に善であるか、何が本当に悪であるかを知ることかもしれない。それは難しいどころか不可能と言う方が適切かもしれない。

しかし人には無理であっても、他の何者にも依存することのない絶対的な存在である神は善悪を区別することができるのである。神と人には大きな違いが数多くあれども、これもそのうちの一つである。そして善悪を熟知しておらず、自らの尺度で物事を考えてしまうがために、義となることのできない人間は、結局のところ神から隔絶されているのだ。

視点を変えて見るのであれば、誰が正しいとか、誰が間違っているとか、人を正しく裁くことができるのはただ神のみであって、それは人の役目ではない。いや、何も司法制度を否定するつもりは毛頭ない。法治国家であるからには、明文化された法律があるわけでそれがこの俗世間における、ある意味絶対的な基準となり得るのだろう。たとえ完璧ではなくとも、神の代理くらいは勤まるかもしれない。それよりも厄介な問題になるのは、一人の人間が自らの基準で他人を裁くことだろう。それは場合によっては白を黒と言ったり、黒を白と言ったりすることになりかねないからだ。それについて、ソロモンはこのように言っている。「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう。」(箴言17章15節)

なぜそうなのだろうか。果たして神はご自身の役割を、人が勝手に演じることを好まないからだろうか。確かにそれはあるかもしれない。しかしそれ以上の何かがあるのではないかと私は思うのだ。それは神の定められた結果を受け入れるか、受け入れないかということにつながるのではないだろうか。

もし神が何者かを悪者と定めたのであれば、その人は悪者なのである。神が何かを罪と認めたのであれば、それは罪なのである。また神が誰かを善人としたのであれば、その人は善人なのである。神が罪を赦したのであれば、罪は完全に赦されているのである。人の目にはどのように映ろうとうも、人は神が決められたことを覆すことはできないのだ。ここに書かれている「悪者を正しい」としたり、また「正しい者を悪い」とすることは、まさしく神のそのような意思に逆らうことになるのではないだろうか。もし人が神の決められたことを真っ向から打ち消すのであれば、果たして神はどのように思われるであろか。そうであればこそ、善悪の判断は可能な限り神にゆだねるべきなのかもしれない。

実際、イエスもこう言っているではないか。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイの福音7章1~2節)

ところで神の子イエスは私たちをさばくためにこの世に来られたのだろうか。いや、そのようなことはない。彼は人々を罪に定めるために来られたのではなく、むしろ私たちと神の間にある埋めることのできない隙間を埋めるために来られたのだ。そればかりか彼は私たちにとって救い主であるだけでなく、もっと身近な存在になることを望んだのだ。イエスご自身がこのように言っている。「わたしはあなたがたを友と呼びました。」(ヨハネの福音15章15節)そして友とは、このような存在であろう。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」(箴言17章17節)

「慈しみ深き、友なるイエスは」という賛美もある。イエス・キリストは私たちを愛し、私たちの悩みや喜びを共にするために、この世に来られたのだろう。