安全を求めるなら

これは日本人に特有の傾向なのか、それとも人類にとって共通の思いなのか、はっきりとしたことは分からないが、人というのは、事あるごとに安全を求めたがるものである。天災が起こると安全安全と言い、人災が起こると安全安全と言い、まだ何も起きてもいないのに、それは安全なのかどうかと議論する。もちろん物事が安全であること自体は、何も悪いことではない。危険と安全を天秤に掛ければ、よほどの冒険好きでもない限りは「安全」を選ぶであろう。しかし人がどれほど頑張っていわゆる「安全な世界」というものを建てあげようとしたところで、果たして本当にそれが安全な世界と呼べるかどうかは、誰も保証してくれない。皮肉なことに、事が起こる前には「安全」と言われていたものが、事が起こってから見ると、実は「安全」ではなかったという例はいくらでもあるだろう。誰でもそのことに気付いたとしてもいいだろうし、いい加減適当なところで妥協して、手を打てばいいだろうにと思うのだが、それでも人はより完璧に近い安全を求めたがるのである。

人がどれだけ将来を憂い、今後起こりうるあらゆる問題に対して、可能な限り万全な対策を施して「これで今度こそ大丈夫だ!」と言ったところで、果たしてそれが人の命を守ることになるのだろうか。正直なところ、私はそうは思わない。一寸先は闇と言うように、人は明日のことは当然ながら、一瞬先の事さえ読めないのである。不測の事態というのは、その言葉の通りに、常に思いがけない方向からやってくるのである。

それどころか人がどれほど気を付けたとしても、人はいつか必ず死ぬものなのである。それを思うと、必要以上に安全を求めて神経をすり減らして生きるのも考えものであろう。安全を気にしている人が早死にすることもあるだろうし、安全なんて知ったこっちゃないと言う人が長生きすることもあるだろう。どだい世の中なんて、そんなもんである。

何がどうなるか分からない世界なのであれば、人は揺るぐことのない確かな足場を求めるのかもしれない。であれば人には二つの選択肢があるだろう。一つは、その足場を作るために四苦八苦すること。もう一つは、すでにある足場を見つけるかこと。しかし人類にとって実に幸運なことに、そのような足場はすでにあるのだ。それはどのようなことがあっても揺らぐこともなく、またそこにいれば、私が先に書いたことと矛盾しているようであるが、安全が約束されるのである。それがどこであるかは、ソロモンのこの言葉に見い出せるのではないか。「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。」(箴言18章10節)

安全な場所とは「主の名」すなわち神の御名でり、それは堅固なやぐら、力の塔と呼ばれている。そしてその中に走って行くのであれば、安全なのである。それにしても、走って行くとか、走り込んでいくとか、考えてみればおもしろい表現である。主の名の下にいるのであれば安全であると言いたいのであれば、そう書けばよいのではないかとも思われる。なぜ走って行くようにと、書かれているのだろうか。これは私の想像でしかないが、神のもとに行くのであれば、急ぐ必要があるということなのかもしれない。それこそ先の事は分からない。もしかしたら世界は明日終わってしまうかもしれない。ひょっとしたらキリストは明日にでも、この地上に戻って来られるかもしれない。それがいつのことかは誰にも分からないとキリストご自身が言っておられるではないか。「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイの福音24章36節)

つまりのんびりしている余裕はないのである。確かな安全を手に入れたくば、明日では間に合わないかもしれないのだ。まずはこれをしてからとか、あれを片付けてからとか、そんな悠長なことは言ってられないのである。そんなことをしている間に、助かる機会を逃してしまうかもしれないのだ。であるからこそ、人は急いで神の庇護の下に駆けていかなければならないのだろう。ともすれば人は自らの力に頼ってしまうものであろう。しかしソロモンはこのようにも書き残している。「富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(同11~12節)

人にとって最善の道とは、神の前にへりくだり、ためらくことなく神の名に身を寄せることなのだろう。