貧しくとも

世に清貧の思想というものがある。私利私欲を追求せず、清く正しく生きて、それがために貧しくともその境遇に甘んずるという生き方である。とてもじゃないが、私にはできない。断言してもいい。いやはや、想像することすらできない。しかし貧しいことは良いことかというと、必ずしもそうではないだろう。経済的に貧しければ心も貧しくなってしまうという考え方もあるではないか。言われてみればもっともなもので、金銭面であれやこれやと悩んでばかりいると、それこそ心の平安などと言うものは無いも同然である。前者か後者か、どちらが自分に当てはまるかと言えば、十中八九後者であろう。が、幸いなことに私は「貧しい」と言えるほど貧しくはないだろう。

さてこれらは貧しさに対する考え方を表したものであるが、前者は貧しいことを善しとし、後者は貧しいことを悪しとしている。同じ状況に対して、まるで正反対の受け止め方があるとは、何ともおもしろいものである。一方が正しくて、もう一方が間違っているとか、こっちが本当のことで、あっちは嘘であるとか、そういうものでもない。どちらも正しいことを言っているし、どちらも真実であると私には思われるのだ。ところで知恵者ソロモンに言わせれば、人は貧しい時にどのように振る舞うのが望ましいのだろうか。「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。」(箴言19章1節)

誠実になること、これが重要なのだろう。誠実でさえあれば、たとえ貧しくとも、間違ったことを言う者や、愚かなことをする者に勝ると言っている。貧しさを抜け出すために手段を選ばぬようなことはせずに、真面目に生きることが理想的なのである。確かに清貧に似てはいるが、ちょっと違うのではないかと思う。あくまでも清貧に甘んずるのであれば、自らの欲望を抑えねばならないだろう。しかし誠実に生きるのであれば、必ずしも自らの欲求を抑える必要はない。求めるものがあれば地道に努力をすればいいだけで、それをあきらめる必要まではないのだ。夢も希望もあきらめてしまったら、それこそ先ほどの「財布が空なら心も空っぽ」という二重の貧しさを味わうことになるだろうし、それこそ生きている目的すら見失いかねない。

しかしながら心構えを変えればすべては解決するかと言えば、必ずしもそうでもなさそういうわけでもなさそうだ。ソロモンはこのようにも言っている。「貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。」(同7節)

つまりこういうことなのだろうか、人は誰かが貧しくなると、その人から離れてしまうと。言い換えるならば、人が窮地に陥ってしまうと、それまで友人だと思っていたような人々さえ、逃げるように去ってしまうということだろう。実際、イエス・キリストでさえ、逮捕された時には、それまで行動を共にしてきた弟子たちにさえ見捨てられてしまったではないか。それだけじゃない。弟子の一人には三度も「知らない」と宣言されてしまったではないか。人というのは、他人のことを外側から見て、自身にとって何の得にもならない状況だとか、こちらに不利益をもたらす恐れがあると見て取ったら、判断したら距離を置いてしまうのかもしれない。保身のためかもしれないが、何とも頼りないものである。とは言え、自分にもそのようなところがあるのは分かっているから、あまり偉そうな事も言えないが。しかし見捨てられてしまった方はたまったものじゃない。彼にしてみれば、金銭的に困窮しているときに、今度は人間関係までが貧しくなってしまうのである。孤独という名の貧困に耐えなければならないのだ。そうなると相談する相手もいなければ、愚痴をこぼす相手もいない。誰も励ましてもくれなければ、手を差し伸べてくれる者が一人としていない、まったくの孤立無援になってしまうのだ。ここまで追い詰められると、誠実に生きる余裕などない。

しかしそのような時こそ、人がキリストに目を向けるべき時なのかもしれない。身近な人に裏切られ、親しい人々から見放された経験をしたキリストであるからこそ、孤独がどのようなものかを知っておられるだろう。何よりも、ありのままの姿で人のことを受け入れて下さるキリストであれば、たとえ人が貧困にあえいでいるような時であっても、見放すようなことはしない。むしろ陰に陽に支えて下さることだろう。そしてキリストが支えてくれるからこそ、人は誠実に歩むことができるのではないか。