正義と信仰

今日ではそのような国家は少ないだろうが、絶対君主制の国のともなれば王が絶大的な権力を持つことになる。王が善政を行えば国家は安泰であり、国民は平安に暮らすことができるだろうが、万が一にも王が悪政を敷くのであれば、国民は疲弊し国家は衰退することになるだろう。良くも悪くも絶対的な権力を手にした者というのは、その力を使って何事かを行おうとするものだろう。それにしても絶対君主制の国が昔と比べて減っている様を見ると、絶大な力で何でもできるとなると、権力者にとっての誘惑が増してしまうのか、道を誤ってしまいやすくなるのか、挙げ句に自らの王位と王国を失ってしまうのか、などと考えてしまうのである。

もしかしたら、これは何も国王に限ったことではないかもしれない。さすがに権力などというものは、私には全く縁のないのことだから、今まで見聞してきたことを元に組み立てた私の勝手な想像でしかないが、人は力を手にするとそれを使いたくなるものなのかもしれない。誰しも自分の思うようにすることができるのであれば、人は自らの欲求を満たすことに奔るか、さもなくば自らの理想や夢を実現するために奔るだろう。箴言を書いたソロモン自身もイスラエルの王であったが、このようなことを書き残している。「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」(箴言21章1節)

確かに王はどんなことでもするだけの権力は持っているかもしれない。しかし王が行おうと考えていることが、必ずしも実現するかどうかというのは、これは確実ではないだろう。なぜなら王にどれほど権力があろうとも、どれだけその国民から尊敬されたり、もしくは恐れられていようとも、王もその支配下にある民も人間であるということに違いはないのである。つまり人である限りは、王といえども神の支配の下にあるのだ。ソロモンは王の立場としてそのことに気付いていたのだろう。だから王の心は主の手の中にあると言うことができたのかもしれない。人がどれほど思いを巡らそうとも、神の思惑はそれを超えたところにあり、神はみこころのままに人の思いを変えられるのである。

またソロモンはこのようにも言っている。「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。」(同2節)

なるほどソロモンが言うように、人は自らの行いを正当化することが多いのではないだろうか。何か失敗をしでかしたのであれば、素直に謝って反省すれば済むにも関わらず、人は何だかんだと言い繕おうとしてしまう傾向にあるのではないだろうか。ふと考えてしまうのであるが、不思議と人は生まれつきそのような不心得な性質を持っているのだろうかと。実際、我が子に何かを注意した時に、さも自分は正しいと不服そうに目で訴える姿を見てしまうと、そんなことを教えたはずはないのにと、何ともやり場のない複雑な思いになるのだ。しかし自分自身を顧みても、そのようなことがないわけではないので、残念なことではあるが、やはり人というのはそのようなものなのかもしれない。

改めて考えてみると、人にとって心とはもっとも秘めたる部分だろう。それは他人からは見ることができないし、それどころか自分自身でも把握することができるかというと、そういうわけでもなさそうだ。そして自分自身で自らの心を知ることができなければ、当然ながらそこに溜まっているものを抑えることもできない。そのような人の心を、神はみこころのままに導き、その心の内側にあるものを計られるのだ。

果たして神は人の心を探って、そこに何を求めるのだろうか。ソロモンはこう言っている。「正義と公義を行なうことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。」(同3節)

つまり神は外面的な信仰の行いよりも、正義や公平さに従って人が行動することを喜ばれるのである。しかし正義にしても信仰にしても、実際には目で見ることができない。自分自身でも自らの内にある正義や信仰が本物であるのか、それとも単なる詭弁でしかないのか、あやふやに感じられこともあるだろう。であるからこそ、それらが形として表われる人の行動に重みがおかれるのかもしれない。正義の道も、信仰の道も、遠く、そして厳しそうだ。それどころか不可能にさえ思えてくる。なぜ神の慈悲が人にとって必要なのかがよく分かるような気もする。