知恵は楽しい

知恵の書として知られている箴言から何か実になるものを読み取ろうと試みるようになってからしばらく経つ。そもそも知恵の言葉に耳を傾けることの利点というのは何であろうか。新しい問いではないだろうが、改めて教えられているように思うのは気のせいだろうか。まず何よりも大切なことは、知恵の言葉に耳を貸すということであろう。「耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。あなたの心を私の知識に向けよ。」(箴言22章17節)

しかし耳を貸すと言っても、それを聞き流すだけでは得るものは何ひとつとしてないだろうし、また箴言を読んでも、ただ単純に字面を追うだけではやはり意味がないだろう。たしかに何にも耳を貸さなかったり、何も読まなかったりするよりはマシかもしれないが、ずいぶんともったいないことをしているように思われる。もちろん最初のきっかけとして、読んだり聞いたりすることが大切であることは否定しない。なんと言っても、すべてはそこから始まるからだ。しかしあくまでもそれは始まりであって、終着点ではないのである。知恵というものは、目で見たり耳で聞いたりしただけで役に立つものではないだろう。それを自分自身の内に留めておいてこそ、初めて真価を発揮することになるのではないだろうか。それというのも、人は自らの経験を通して学んだことや、人から教えられたことを基にして、どのように振る舞ったらいいかを考えたりするのではないだろうか。さもなければ人は同じ過ちを一度や二度どころではなく、それこそ果てなく繰り返すことになるだろう。

しかし知恵の言葉を心を向けるなどと改まって聞いてしまうと、どことなく難しいことのように、そして何やら窮屈そうなものだという感想を抱いてしまうのは、果たして私だけだろうか。人の話を聞き流すだけなら、確かに簡単であろう。書いてある文章を目で追うだけなら、確かに楽かもしれない。自分から何かをするというわけでもなく、ただ受け身の姿勢で待っているだけであれば、疲れることも苦労することもないだろう。しかし自らの手を動かすこともせず、頭も働かせないのであれば、身につくものは少ないだろう。だが知恵を得ることは、思うほどに面倒でかったるいことなのだろうか。神に知恵を求め知恵を得た先達であるソロモンの言葉を借りよう。「これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ。これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ。」(同18節)

彼は知識を得ることは楽しいことだと言う。では、なぜ楽しいと言えるのだろうか。ところで勘違いしやすことかもしれないが、楽しいということと簡単であるということは必ずしも一緒ではないだろう。それでは人はどのような時に楽しいと感じることができるだろうか。おそらくそれは満ち足りた時であろう。さらに考えると、人はどうしたら満ち足りたと感じることができるだろうか。それは何かをやり遂げた時であろう。ぼんやりと過ごしているだけでは、何かをやり遂げることはできない。ただ天を仰いで、財宝が降ってくるのを待っているだけでは、人は満ち足りることはないはずだ。人に目指すべき何かがあり、それに向かって一歩ずつでも進み続けるのであれば、人は充実した思いになることだろう。その充足感が楽しいと感じることになるのである。とは言っても、楽しいという感じ方は十人十色であろうから、私の言っていることが必ずしも正解であるとは言えまい。しかし充足感や達成感を否定的にとらえる人はさすがにいないだろう。それを楽しいと感じるかどうかは別としても、それが人に喜びを与えることに疑いはない。そうしてみると、知恵の言葉を心の内に留めようとするのであれば、結果としてそれは人を満足させることになるのだろう。

ソロモンは続けて言っている。「あなたが主に拠り頼むことができるように、私はきょう、特にあなたに教える。私はあなたのために、勧告と知識についての三十句を書いたではないか。これはあなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に真理のことばを持ち帰らせるためである。」(同19~21節)三十の教えについてはこの後に出てくるので今は見ないでおくが、これらの知恵の言葉は、それを聞いて心に留める人にどのような恩恵をもたらすのだろうか。ひとつは、神を信頼することができるようになるということである。そしてもう一つは、真理のことば、つまり神のみことばが確かなものであることを知ることができ、またそのことばでもって人々に語ることができるようになるということだ。もしかしたら知恵の言葉は、神と人とを結びつけるためにあるのかもしれない。