何を求めるか

自分は欲がない人間だ、とはさすがに口が裂けても言えない。どちらかと言えば、私は強欲である。正直なところ、今さらそれを悪いことだとは思ってはいないし、反省もしていない。それどころか、だからどうした、とばかりに開き直っているくらいならまだしも、欲こそが人間を動かす原動力であるとも思っているほどだ。とは言え、欲望のままに行動するわけにもいかないのが現実である。見る物聞く物、あれやこれやと欲しいと思う物を片っ端から買ってしまっては、これではいくら貯金があっても足りない。幸か不幸か、私の財布の中身はたかが知れているので、自制心が大変に鍛えられるわけである。ものは考えようだ。もし私に欲というのがまったくなかったとしたら、同時に私の自制心はあまり鍛えられることがなかっただろう。してみると、やはり欲は言うほどに悪いものでもないのかもしれない。ところで欲深な私が知恵者であるソロモンの言葉を引用するというのも、なんともおこがましいことかもしれないが、ソロモンはこう言っている。「富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。」(箴言23章4節)

何とも耳が痛いことを言うではないか。実はその富というのが、私が最も望むものの一つである。なぜなら富さえあれば、それ以外の欲望の多くを満たすことができるのではないかと私は思い込んでいるからだ。富さえあれば、これ以上我慢する必要もなくなるのである。なんという解放感であろう……しかし裏を返せば無節制へと続く道をまっしぐらに進むことになるのだろうと想像ができる。それが結果として人をどこに導くかというのは、さほど難しいことでもないだろうから、ちょっと考えれば分かるだろう。自らの欲を制することができなくなっては、人は自らの欲に支配されるようになり、いかなる信仰者であっても神に目を向ける余裕がなくなってしまうのではないだろうか。

そんなことを考えていると、もしかしたら富というのは、本当は夢に見るだけで十分なのかもしれないとも思えてくる。もしも私のように欲深な人間、それどころかそもそもが富に不慣れな人間がそれを手にしては、富を自由に扱うつもりが、むしろ反対にその富に支配されることになりかねない。さすがにそうはなりたくないものである。それに富というのは、使えば消えてしまうのである。イスラエルの王として栄華を極めたソロモンでさえこう書き残しているではないか。「あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、わしのように天へ飛んで行く。」(同4節)

冷静に考えてみると、どうやら富というのは、苦労をしてまで求めるほどの価値がないのかもしれない。とは言いつつも、やはり心のどこかでは、その考えを完全に受け入れることができない自分もいるわけだが。

それでは人が求めるべきが富ではないとすれば、人は何を求めて然るべきなのだろうか。ソロモンの言葉を借りるとこうなるだろう。「わが子よ。よく聞いて、知恵を得、あなたの心に、まっすぐ道を歩ませよ。」(同19節)聞き従って知恵を得よ、とソロモンは言っている。そして知恵を得たのであれば、心が道をまっすぐに進むようにせよ、とも言っている。富が人の道を誤らせる可能性を秘めているのであれば、知恵は人に正しい道を歩ませる可能性を持っているということであろう。さらにソロモンはこのようにも言っている。「真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と悟りも。」(同23節)

苦労は買ってでもせよ、とはよく言われることであるが、同じ買うのであれば、苦労よりも真理を買うべきなのかもしれない。そしてそれは一度手に入れたら、二度と手放してはならないという。苦労はそこから何かを得たら、もはや不要になるだろうし、むしろ忘れたいものとなるだろう。しかし真理は人に知恵や教えや分別を与えたその後でも、常に存在し続けるのだ。真理は一時的なものではなく、人は常にそこから学び続けることもできるだろうし、自らを人としてより優れた者へと高めることもできるのだろう。

人に欲があるのなら、つまり何かを求めたり、何かを欲したりする情熱があるのなら、それを富や目に見える形のある物に向けるのではなく、真理や知恵に向ける方が、自らの糧として得るものが多いのではないだろうか。富は時間が経つに従ってまるで最初から存在しなかったかのように消えてしまうが、真理は最初から形がないゆえに永遠に残り続けることもできるのだろう。そして真理と知恵は人を神に導くことにもなる。