人を笑えない

どこの誰が言ったのかは分からないが、他人の不幸は蜜の味というフレーズを聞いたことがある。あまりおすすめできる考え方ではないが、そう言いたくなる気持ちは何となく分かる気がしなくもない。平たく言えば、他人が災難に遭っている間は、少なくとも自分の抱えている問題が小さく思えてしまうか、大変な目に遭っているのは自分だけではないと安心してしまうということだろう。さすがに冷淡でひねくれ者の私であるが、常日頃からそう考えているわけでもない。誰かが大変な目に遭っていれば、ごくまれかもしれないが、同情したり心を痛めたりすることだってある。しかし私よりも恵まれているような人々が痛い目に遭うところを見ると、ざまあ見ろと思ってしまうのも事実である。

しかし人の不幸を笑うというのは、どこか間違っているのではないかと、何となく分かる。もちろんなぜ間違っているのか、と聞かれても答えに窮してしまう。はっきりとした理由があるわけでもない。ただ心情的にそう思うだけだ。ところでつい最近になって気付いたのだが、ソロモンの箴言にも似たようなことが書いてあるのだ。「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。」(箴言24章17節)

敵が倒れても喜んではならないとソロモンは言う。であるとすれば、他人の不幸を喜ぶのと、敵の苦難を喜ぶのとでは、ちょっと違うのではないだろうかと考えてしまうと、格別に敵を持たない立場から考えれば、この言葉からは何も学べないだろうとも考えてしまう。改めて私の敵とは何者かと考えてみると、私にとって仇をなす存在が見当たらないのである。確かに私が苦手とする人たちや、嫌いな人たちがいることは否定しないし、また広い世間には私と関わりあいたくないと思ったり、そばにいたくないと思う人たちもいるだろう。しかしながらそれを悲しいとか残念だとか思ったこともない。それが普通だろうし、お互い様というものだ。どちらかといえば、万人に愛されるよりも、万人から畏怖されることにあこがれを感じてしまうのである。しかしそうは思う私であっても、討ち取ってやりたいと憎むような敵もいないし、人からそのように思われる節もない。平和というか刺激がないというか、商売敵も恋敵すらいないのが現実である。

そうしてみると、私には敵がいない。だから、倒れるような敵もいない。だから、笑う相手もいない。ということはつまり、ソロモンのこの箴言は無視してもかまわない。……いやいや、さすがにそれは違うように思えてならない。問題は敵がいるかいないかではないだろうし、その敵が苦しんでいるかどうかでもないだろう。それよりも大事なことはソロモンの次の言葉にあるのではないかと私は思うのだ。「主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから。」(同18節)

私には敵がいないから、これは私に敵がいたらと仮定してみよう。なぜ神は私たちの敵を哀れむのか。そのような状況であれば、むしろ敵の苦境を利用して彼らを潰してしまえば、私たちの勝利に終わるのではないか。そうなれば敵は二度と私たちに仇することがないだろう。一件落着だ。しかしこの考え方にはひとつ問題があるのではないだろうか。それは私たちが正義であるという前提に立っていることではないか。そして現実には、私たちは義人ではないということだ。

さて義に遠く及ばない私たちが敵の不幸を喜ぶ姿は、はたして神の目にどのように映るだろうか。それこそ「目くそ鼻くそを笑う」かのように見られているかもしれない。神が私たちに哀れみを持たれるのならば、神は私たちの敵にも同じように憐憫の情を覚えるだろう。私たちが人から嘲られる時に、神が私たちを慰めるのであれば、私たちが敵を蔑む時に、神は彼らを助け上げないだろうか。

万が一にも私たちに仇なす者がいたら、私たちはどうすべきか。何もしないというのが、もしかしたら正解かもしれない。神を味方につけるためには、それが最善策なのかもしれない。なぜなら何かのきっかけで私たちが彼らに仇をなそうとすれば、神は彼らの側につくことになるだろう。敵がいようといまいと、確かに言えることは、私たちが人に対して憎しみを抱くとか、彼らを馬鹿にするとか、彼らの不幸を笑うとか、彼らを妬むとか、理由は何であれ他人に対して負の感情を覚えるのならば、神は私たちではなく、負の感情を抱かれる側を哀れみ励ますであろう。私たちは人を笑う立場にはいないのだ。