隣人の耳

聖書を読んで前々から気になっていたのだが、聖書には「隣人」という言葉がよく登場するのではないだろうか。有名なところでは旧約聖書にあるモーセの十戒に「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。……すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト記20章16~17節)と書いてあるし、新約聖書を開いてみると「父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイの福音19章19節)と書いてあるのだ。そして箴言の25章には、もし私が数え間違えているのでなければ、4回ほど使われているのだ。

そもそも隣人とはどのような人を指すのだろうか。文字通り「ご近所さん」であるといえば、確かにそうとも言えよう。そう考えると、隣人とは同じマンションに住んでいる人たちであり、同じ職場にいる人々であり、同じ教室で学ぶ人々であり、同じ教会に集う人々のことだと言っても、あながち間違ってないと思う。ところで、そのように身近にいる人たちだけが、私たちにとっての隣人なのであろうかと最近疑問に思う。確かにこれだけでも十分過ぎるくらいの隣人であるが、今の世情を考えると、それでもまだ足りないように思えてくるのだ。時代は変わりつつあることを忘れてはなるまい。聖書が書かれた時代と今の世の中では、ずいぶんと意思伝達の手段が違っているというのが現実である。いや、それどころか十数年前と比べてもだいぶ違っているのではないか。

これは私の感想でしかないが、世界が小さくなりつつあるように感じるのだ。たとえば今ではインターネットのおかげで世界の至るところで起きていることを、自分の家から一歩も出ずに知ることができるようになった。もちろん、私が生まれた当時でも海外のニュースを報じることはあっただろうが、今ではニュースに限らずとも、探し求めさえすれば、どのようなことでも知ることができるのだ。また私がアメリカに留学していた頃は、日本にいる親と連絡を取ろうと思ったら、とんでもない時間に電話を待つか、わざわざ手紙を書かねばならなかった。当時でもインターネットはあることにはあったが、まだ広くは普及していなかったからだ。それからたった十数年、機械音痴と思っていた親の口から「スカイプ」などと言う単語を聞くようになってしまったのだから、まさかの驚きである。

しかしインターネットが一般的になりメールで遠くの友人とも連絡を取ることができるようになっても、まだ自分がいて相手がいてという具合で、ある意味閉ざされた環境での一対一のやりとりでしかなかった。ところが最近ではインターネットに載っかた様々なサービスが次から次へと出てくるようになった。ちょっと前には誰も彼もがブログをアップするようになったかと思ったら、早くもブログは下火になり、今では「フェースブック」や「ツイッター」が大手を振るようになった。これらすべて、私がIT業界で働くようになった後の話である。おまけに今ではスマートフォンの登場で、わざわざ家でパソコンを立ち上げる必要もないのである。喫茶店で一服していようが電車に乗っていようが、それこそ便所の中であろうと、世界の事情を知ることができるのは当然として、それどころか全世界に向かって「本日快腸!」と伝えることもできるのである。まがりなりにも技術者をやっている私でさえ、本音を吐露するのであれば、まったく奇妙な世の中になったと言わざるを得ない。

こうなると誰が隣人であるか、区別をつけるのが困難になってくるのではないか。遠く離れた場所にいる人や、誰とも知れない相手が隣人になってしまうという具合で、旧約聖書の時代は言うまでもなく、十数年前と比べてもまったく様相が一変してしまった。要するに関わりを持つ人の数が途方もなく増えてしまったのである。そればかりか直接の面識のない人さえも隣人の様になってしまうこともあるのだ。

壁に耳ありではないが、私たちの日頃の言動は、常に隣人の耳に晒されていると言っても過言ではあるまい。今は相手が見えなくとも、意識しなくとも、私たちの言葉がどこかの誰かの耳に入ってしまう世の中なのである。であればなおのこと、私たちは自らの話すことが、果たして価値あるものなのか、それとも無駄なものなのかに注意せねばなるまい。それでは何が価値ある言葉になるのだろうか。その手がかりはソロモンのこの言葉に見出せるだろう。「時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。」(箴言25章11節)